「問題」があっても「幸せ」であることはできる

今日の話題は、問題があっても幸せであることはできる、です。

 

例えば私の話なんですが、

私はずっと、日々の生活の中で何かしら忌々しい思いをする出来事を見つけては、

「ほーらやっぱり、私の人生から忌々しい出来事がなくなることはないんだわ、
だから私が幸せであることなんて、あり得ないんだわ」

と思っていました。

だいぶ拗ねてましたね笑

(ちなみに、私にとっての「忌々しい出来事」というのは、「人からぞんざいに扱われる」というのがほとんどでした。)

 

どんなに小さなことでも、何か一つ上手くいかなければ人生全体が台無しになってしまう気がしていたのです。

で、台無しになるのが怖いので、いつも「次はどんな忌々しいことが起こるか」に目を光らせている感じでした。

 

その状態では、私の意識は忌々しい出来事にばかりフォーカスしているので、例え99%のことは上手くいっていたとしても、1%忌々しいことが起こると、意識がそこだけに注がれることになります。

すると、99%の素敵な部分は意識から消え去り、私の目には、まるでその1%が人生の全てのように、人生の100%が忌々しいことで満たされているように感じることになります。

 

ということは、結局、自分の意識を忌々しいことだけに注ぐことで、自分の目に見える自分の人生を、自分の手で「台無し」にしていた、とも言えます。

なんてことー!

 

結局、気に食わないことが起こって人生が「台無し」になることに対して、心の中で準備していたんですね。

いつも、忌々しいことへの心の準備をしておくことで、実際に台無しになってもそこまでショックを受けないで済む、という自分なりの保険だったのです。

怖がりな人は良くやってしまうことだと思います。

 

でも結局、そうすることで、結果として私の人生を「台無し」にしていたのは、お話ししてきたとおり私自身だったわけです。

 

これに気づいた時は衝撃を受けました。

「なんだ、99%の素敵な方を自分が見れば、1%の問題があっても、今のままで何も変わらなくても、私は今この場で幸せなんじゃん!」

ということなのです。

逆に言うと、例え99%が素敵でも、1%の問題に意識を注ぎ続ける限り、私は不幸、ということでもあります。

自分がどちらを見るか、だけ、なんですね。

 

これに気づいたら、今まで忌々しいことに目を光らせていたのがバカバカしくなってしまいました。

忌々しいことに注ぐエネルギーがあったら、素敵なことにざぶざぶ使おうよ、と。

 

そして、どちらを見るか決めると、最初に自分の目に見えていた「素敵」と「問題」の割合も、どうでも良くなってしまいました。

素敵な方を見る、と選んでしまえば、素敵な方しか意識しないし見えないことになりますからね。

 

結局、

問題がどれだけあっても、幸せであることは可能だし、
あとは、自分が「問題」に意識を注ぐか、「幸せ」に意識を注ぐか、だけ、

なんですね。

 

(もちろん、その意識の切り替えが難しい、というのもよく分かります。そこに、心の「痛み」があるんですよね。良かったら、そのお話を聞かせてくださいね)

 

というわけで、意外と人生はシンプルなようだ、というお話を、私の体験からお話してみました。

参考になればうれしいです。

閑話休題。

冬の太陽を背にした教会の塔。