残酷な現実を、やっと、ちょっとの微笑みと共に受け入れることができた話

今回は、

残酷な現実を、やっと、ちょっとの微笑みと共に受け入れることができた話

というタイトルで、ちょっとばかり切ないお話をシェアしようと思います。

タイトルで書きましたが、私にとっての残酷な現実をやっと受け入れることができた時の話です。

 

無料動画セミナーではちょっとお話していますが、私は母親との間にいろいろとわだかまりがありました。

今振り返ると、子供時代の私は母のサンドバッグだったと思っているのですが(物理的な意味ではなく精神的な意味です)、そんな母に対して、大人になってからそりゃーたくさんの怒りを持っていたんですね。

 

自分の怒りと向き合うようになって、母には母の事情があったということが理解できるようになってきて、怒りが暴走したり自分がこの怒りに振り回されたりということはなくなりました。

が、それでも、

「でもやっぱり、私が感じてきたことを知ってほしかったな…ちょっとでも分かってもらえたら私だって救われるのにな…」

というやるせなさを、長いこと拭うことができずにいました。

諦められなかったんですよね、「悲しかった私の気持ちを分かってもらうこと」を。

 

頭では、「まぁ、そうは言ったってね、当時のあの母じゃ、無理ってもんだよね」と「理解」でもって無理やり自分を納得させようとたくさん努力したんですけどね。

でも、頭で自分を納得させるのって、世の中で一番効果のない手段だなと思います笑 だって、気持ちは頭では絶対ねじ伏せられないですもの。

なので、「もうさっさと割り切って大人にならなくちゃいけないのに、それができないー!」というジレンマにもまた苦しみました。

(これ、誰にも当てはまります。何かにうじうじ悩んでるときって、頭で考えた正解と心の中の本当の気持ちが乖離していることがほとんどです)

 

でも。

もういい加減、叶わない期待を握りしめて、いつまで待っても叶わないことに傷つき続けるのは止めたいな、と思ったのです。

ようやく、ですよね。私にはそれだけの時間が必要だったのです。

 

叶わない期待を握りしめることを止める。いつまで待っても叶わないことに傷つき続けるのは止める。

そのためには、「この期待は叶わない」ことを認めることになります。

「もしかしたら分かってもらえて、私の気持ちも救われるかも」という一縷の望みを捨てることでもあります。

どんなに待ってもどう足掻いても分かってもらえない絶望を受け入れることでもあります。

悲しいことです。

でもそれをやることにしました。

 

母には、悪意は全くなかったのです。ただただ、自分のことで精一杯で、子供も含め周りのことは目に入っていなかったのです。ただただ、無邪気な子供のような人だったのです。

悪意のなさ、無邪気さは、気づきの余地を残さず、時にとても残酷です。

それを受け入れることにしました。

 

たくさん涙が出ました。

ほんとに、残酷だな。

 

でも、そう思いながら、心の中でちょっと微笑んでいる自分がいることにも気づきました。

その時は何故なのか分からなかったのですが、たぶん、「よく頑張ったね」と自分に言うことができた瞬間だったのだろうと思います。

同時に、私の悲しみを母に丸投げして癒してもらうことを求めるのではなく、自分自身でまるごと受け入れることができた瞬間でもあったのだろうと思います。

 

あぁ、私頑張ったな。

そう思いました。

現実は時に残酷だ。でも、私はそれを受け入れることに決め、受け入れた。

これでいいんだ。

 

そこに、母に理解されることを期待しては絶望する中で感じていた、身体がきりきりとねじ切られるような苦しさはもうありませんでした。

切なさはあるけれど、この切なさはもしかすると、理解されないことの絶望ではなく、母の理解を切望していた子供時代とお別れすることに対して感じた切なさなのかもしれません。

 

これでいいんだ。

もうこれで終わりにしよう。

私、よく頑張ったね。

 

今、あなたが親との関係にわだかまりがあったり苦しんでいたりするなら。

無理やり頭で考えて、大人の対応を自分に納得させる必要はありません。だって、「無理やり」ってことは結局無理なんですもの。

 

でも、その苦しさを乗り越えていくことはできます。

そろそろ準備ができたなと思ったら、「私に気づいて」「私の気持ちを理解して」と暗闇の中で静かに泣いているあなたを迎えに行ってあげましょう。

そして、迎えに行ってあげたその先には、それらの悲しい記憶を丸ごと抱きしめられるほどに成熟した大人のあなた自身が待っているに違いありません。

 

参考になればうれしいです。

 

(追記)

実は、最初にこのメルマガを書いた時、

「なんか『悲劇のヒロイン気取り』と思われるかなぁ、『その程度のこと』なんて思われるかなぁ」

と、ちょっとだけ不安を感じました。

でも、
頑張り屋さんの皆さんは、まさにこんな風に感じるために、
「こんなの普通は『悩み』のうちにも入らないはず」と自分の気持ちを無視してしまい、
自分が悲しさとか怒りなどを感じたりしていることに「OK」が出せなくて、
なのでもちろん誰かに相談することもできず、
それがまた苦しさを倍増させるんですよね。

なので、

「その程度のこと」と言われたとしても、これが私が感じたことで、これが私にとっての真実です、って表現していいんですよ、私は今回こんな風に表現してみましたよ

ということの例にもなるかな、と思い、配信することにしたのでした。

誰にどんな判断をされたとしても、自分にとっての真実を自分が一番大事にしてあげられたら良いですよね。

だってこの経験は、他の誰でもない、自分自身の経験なんですもの。

これもまた、「自己肯定」ですね♪

 

(ちなみに、ここでお話したことは、母についてのいろんなことがだいぶ手放せてきてからの出来事です。

なので、最初からこれに取り組んだわけではなく、最初はとにかく、苦しかった気持ち、悲しかった気持ちを自分で認めて解放するところから始めました。

もちろん、人によって進め方はいろいろですが、今わだかまりがたくさんある最中で「絶望を受け入れる」とやっても、ちょっとばかり苦しいこともあるかもしれません。なので、無理に取り組もうとする必要はありませんのでね!)

閑話休題。

夜は、街灯やライトアップされた建物たちがひときわきれいです。

真っ暗になってもカメラを持って散歩できるくらい治安が良いのもありがたいことです。

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