「自由に生きる」なんて「きれいごと」だと思いますか?

今日は、犠牲や我慢を「自由」と絡めて考えてみます。

 

実は最近こっそりと、メルマガの書き出しを

「こんにちは、頑張り屋さんの女性を自由にするカウンセラー・コーチ、コバヤシアキコです。」

に変えたの、お気づきでしたでしょうか。

 

私が最初にカウンセリングを受け始めた時、当時のカウンセラーさんが

「アキコさんは『自由』な人なんですよ」

っておっしゃったんですね。

で、もちろんひねくれ者の私は

「は?もっとなんか革新的なこと言ってよ、とりあえずきれいな言葉を言っとけばその場がしのげると思ってさ」

って、本当に思いました笑。適当に「はぁ」とだけ言っておきましたけれども。

でも、なんとなく「特別な人」と言ってもらえた気分にはなれたし、そういうところでも飢えていたので、それはそれで悪い気分はもちろんしませんでしたけどね。

すごいでしょ、この拗らせ方(笑)。

 

「自由」という言葉は、当時の私には「ただのきれいな言葉」でしかなくて、その意味は分かっていませんでした。

でも、それから何年もかかって今思うのは、

「今、役割や義務や期待などに縛られて生きている頑張り屋さんは、まさに『自由』という才能を開いて活かすために生まれてきたんだろうな」

ということです。

(あら、結局私もきれいごとを言うようになっちゃっただけ??笑)

 

「問題があるところに才能がある」と言います。

 

今、家族とか仕事とか役割などのために、自分の気持ちや意思を後回しにして理不尽さなどを感じつつも、

「でも、皆こうして生きているんだし」
「これが普通だし常識だしこうするべきだし」
「これくらいできないと困るし」
「私にはこういう生き方しかないし」

と、自分をなだめたり、ある意味「縛り」ながら、頑張っている

けれど、いつまでこうやって無理して頑張ればいいんだろ…

そんな、実はちょっと意識的に目を背けてきたかもしれない「問題」があるなら、
今、そこを越えることで見えてくる、次のステージに行く準備ができたところ

かもしれません。

 

次のステージに行く準備ができたからこそ、今の状態を良い意味でぶち壊すきっかけとなるべく、「問題」は起こります。

無理な我慢や犠牲による疲弊、のような問題を感じる頑張り屋さんの次のステージは、その我慢や犠牲を手放した先にある「自由」を表現すること、だと思うのです。

そう考えると、これまで、自分の意思や気持ちは後回しにして、たくさんの

「○○しなければならない」
「○○するしかない」
(本当はやりたくないんだけど…)

のような義務的な枠の中で生きてきた頑張り屋さんには、「自由」という才能や使命がもれなく与えられているんだよね。

そんなことを考えていて、「頑張り屋さんの女性を自由にするカウンセラー・コーチ」にしてみたのです。(実際には、自由になるのを「サポートをする」カウンセラーですけれども。)

 

ちなみに、自分が自由になることは、逆に周りに我慢や犠牲をさせることではありません

自由な状態は、(理想は)、「自分を尊重する」ことも、「相手も尊重する」こともできて、どんな形で尊重するか(どんな落としどころにするか)も、お互いに尊重し合いながら選べる状態です。

誰か一人、どれか一つだけが「正しく」て「優先される」のではなく、どれも誰でもOKであっていい状態です。

ケンカする必要はないんですよね(したければしても良いですけどね!)。

 

もちろん、今まで我慢や犠牲をたくさんしてあげてきた方が自分の意思も主張し始める時は、コミュニケーションに戸惑うかもしれません。

それから、あなたの我慢を「美味しく」利用してきた人は離れていくかもしれません。都合の「良い人」じゃなくなっちゃいますのでね。

でも、我慢と犠牲の縛りを手放して、自由を表現し始めた新しいあなたが「好き」と言って繋がってくれる人も、必ずいます。

そうやって、我慢や犠牲を止めて自由に自分のために生き始めると、そのあり方に相応しい現実がやってくるんですよね。

 

実は、犠牲や我慢の生き方は、ある意味では「楽ちん」です。

誰かのため、仕事だから、という枠や価値感に従わなければ「ならない」ので、自分で考える余地も必要もないのですね。

逆に、自由な生き方では自分で「選ぶ」必要があるので、ある意味面倒かもしれません

でも、そうやって自分の意思で「選んでいる」自分に気づいた時、

「あぁ、やっと私も、自分の人生を生き始めたんだな」

と、じんわりとした温かさを感じられるのではないかと思います。

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