続・「やる気」の精神論の奴隷、いつまでやり続けますか?

今回は、本当は別の話を書こうと思っていたのですが、ふと思いついて、前回の続編ということで

続・「やる気」の精神論の奴隷、いつまでやり続けますか?

というタイトルにしてみました。

 

前回は何を書いたかおさらいすると、

・「やる気」が必要なのは、本当はやりたくないことだから
・でも頑張り屋さんは「やる気」の正論を自分に振りかざして自分を酷使してしまう
・本当はやりたくないことなら、それを止めたり、やりたくない要素を減らしてみよう

ということでしたね。

 

で、今日はどんな続編を書こうと思ったかと言うと、

「実はこれはやりたくないんだよね」と自覚することそのものが難しいこともあるね!

という話です。

 

例えば私の話なんですが。

私は以前コンサルティング会社に勤めていたことがあります。

働いていた時は、すばらしい会社に採用してもらって素敵なオフィスでいかにも賢い人っぽく働けるんだから、もちろんこれが私がやりたいこと!と信じて疑いませんでした。

でももちろん、毎日苦しかったですよ。文字通り「やる気」を奮い立たせて会社に行っていましたしね。

私の場合は、今考えると実は全然やりたいことではなかったのに、プライドという雑音が邪魔して本心の「本当はやりたくない」という気持ちを直視することができなかったのでした。

つまり、「これが私がやりたいこと!」を疑うことを自分に許せなかったのです。

さらにそこに「やる気」の理論で蓋をしていた感じですね。

 

こんな風に、「本当はやりたくないんだけどね」という本心は、いろんな事情で見えなくなりがちだなぁと思います。

なので、「本当はやりたくないこと」を自覚するには、ちょっと意識して(場合によっては勇気を出して)見つめてみることも大事だなと思っています。

 

で、もうちょっと言うと、勇気を出して本心に近づいてくると、いよいよプライドやら「やる気」の正論やら常識やらのような雑音が大きくなってきます。

曰く、

そんな子供じみたこと…
私がやらなかったらいったい誰が…
これがなかったら私の存在意義が…
普通の人はきちんとやってるし…

などなどですね。

こういう雑音は全部、本心を見ないために頭で作り上げた思考です。

昨日もちらっと書きましたが「自分を律して頑張ることが正しい」という精神論とか、「大人は本心を隠して頑張るもの」「世の中みんなそうしてる」という常識とか、いろんな理由を駆使して本心から目を逸らすための理屈ですね。

こういう思考って、理に適っていて説得力があってなんだか高尚な感じがするので、ついつい信じちゃうんですよね!その割にどう頑張っても全然腑に落ちないし、だからますます苦しいんですけどね!

逆に本心て、全然理にかなっていなくてバカげているように感じます。

でも結局、本心て結局はとてもシンプルで無邪気なものなのです。そして、本心は必ず腑に落ちます。

 

ちなみに、これも昨日ちらっと書きましたが、「私は本心ではやっぱりこれはやりたくない」と認めたとしても、その後の行動は選ぶことができます。

つまり、やりたくないことをまるごと止めてしまう、というだけでなく、やりたくないことの要素を減らすということもできます。

そして更に言うと、「やりたくない」ことは自覚しながらも、でも今はやっておく、ということを選ぶのも可です。

どのケースでも、大事なのは「自分の本心はこれ」と認めるステップがあるかないかです。

なぜかというと、本心が分かった上で、それでも今はやっておこう、と選ぶのと、本心を無視してやり続けるのは、傍目には同じように見えますが、自分の心の健康状態は全然違ってくるから、なんですね。

無邪気でシンプルでバカげているように見える本心を認めることと、その後の行動を選ぶことは全く別次元の話。

そう思うと、本音を直視することがもう少し簡単になるんじゃないかな?と思います。

 

というわけで、そもそも「本当にやりたくないことを自覚する」ためのハードルがあるな、ということから、今日はこんなお話をしてみました。

いろんな思考で本音を自分から隠し、自分を律するのが得意な頑張り屋さんにはちょっと勇気のいることかもしれませんが、まずはこの本心を認めてみることにトライしてみませんか?というお話です。

参考になればうれしいです。

閑話休題。

オランダではこの数年ラーメンがとても流行っていまして、新しいラーメン屋さんがいくつもできています。

日本の味と比べればさすがにちょっと劣りますが、海外でこれだけの味が楽しめれば充分よね?!と思っています。

アムステルダムの街を眺めながらすするラーメン↓