今回は、
愚痴れる相手の作り方☆
ということで、前回の「愚痴を言える相手、いますか?」に頂いたお便りにお答えしながら書いてみようと思います!
前回は、
- モヤモヤした思いがあっても、それを愚痴ることはどうしても我慢して溜めこんでしまいがちなのが、頑張り屋さん。
- でも、そうやって我慢することは「自分いじめ」になっちゃいます。
- だから、自分の気持ちも誰かに聞いてもらっていい、という許可を自分に出してあげませんか。
というお話をしました。
そして、こちらのお便りをいただきました。
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愚痴っても良い人を見つける判断力がありません。
何度も、失敗して、傷ついたことがあり、人を頼った自分が悪いと思いました。
どうしたら、良いのかな?と思います。
(Hさん)
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Hさん、いつもありがとうございます♪
自分の気持ちを誰かに聞いてもらっても良いとは言っても、その相手が見つけられない、というお悩みも、切ない「あるある」ですね。本当に悲しいものです。
私も、そりゃー何度もやらかしました。そして、もう誰も頼るもんか!となりました。
というわけで今回は、「愚痴を言っても良い相手の作り方」について、お話してみます。
Hさんのケースがこれに当てはまる!と決めつけるのではありませんが、こんな傾向があるのかも?と想像もしながら書いてみますね。
実はこれ、結構奥深いんですよね。
チェックリストに照らして「この人は合格!見ーつけた!」とはいかないのです。
なので、今回の記事のタイトルも、「見つけ方」ではなく「作り方」なのです。
まず。
そもそも、愚痴りたい・頼りたいと思って相手に近づいたのに拒否されるなどして傷つくという経験をした時、何が起こっているかというと、
自分では、相手は愚痴みたいな重たい話も受け止めてもらえるだろう、つまり、自分と相手の距離はそれくらい近いだろうと認識(期待)してたけれど、
相手はそこまで近いとは思っていなかった。
という、ちょっと悲しいすれ違いがあったりするんですね。
この「人との距離感」の見極めがちょっと苦手な方が、こういう経験をすることも結構あるのです。
ちなみに、他人との距離感の原型は、子供時代に母親との関係の中で学びます。
なので、こういう経験のある方は、母親との心理的な距離がとても近いか、逆にとても遠くて、「一人の人間同士」の自立した関係が確立しきっていないということが良くあります。
でも、人との距離感なんて普段の生活で意識する人はほとんどいませんので、そこで自分を責める必要は全然ありません。
私も心の勉強をするようになって初めて意識するようになりましたし。
大事なのは、そこで「自分が距離感が分からないからいけないんだ」と自分いじめループにはまるのではなく、
「そうか、私の距離感は、人とはちょっと違うところがあるのかも?今までどんな距離感で来たんだろう?」
と自覚するところから始めると良いと思うのですね。
自覚するだけでも、「今私はこの人に近づきすぎてるかな?どうかな?」という心の中のチェック機能が働くようになりますのでね。
また、生い立ちにそれほど込み入った事情がなかったとしても、距離感が人それぞれなのはまぁ自然なことなので、こう認識しておくのはいずれにしても役に立ちます。
そして次のステップとして、そうやって距離感を意識しつつ、愚痴をも許される人間関係を作っていきます。これはもう、相手も自分も尊重しながら、少しずつ丁寧に築くしかありません。
例えば、人によっては文学や芸術の話が大好きな人もいれば、政治の話が好きな人もいるし、芸能ネタが大好きな人もいますよね。
それと同じように、愚痴みたいな話題も大丈夫な人もいれば、まったく受け付けない人もいるわけです。ネガティブな話なので、他の話題より受け付けない人は多くなるでしょうしね。
また、人によっては誰ともとても近しい距離感で付き合う人もいれば、いい感じに距離を保った付き合い方が好きな人もいます。
しかもこれらも、相手によって、また人生のステージによって変わってくることも多いので、自分と相手という「個人」同士の「今」の関係の中で見ていく必要があります。
まずはこういったことを、それぞれの個性・好みとして理解し、尊重します。それが自立した大人同士の距離感にもつながります。
(ちなみに、私の例をお話すると、以前、職場の友人に愚痴を聞いてもらおうとしたところ、耳を塞がれたことがあります笑。
やっぱり悲しかったし、「友人と思ってたのに!」と憤慨もしましたが、彼女は愚痴のようなネガティブな話にはそれくらい強いアレルギーがある人だった、というだけのことなんですよね。
それを私が理解せず、彼女にとって心地良い距離感を無視して境界線を侵したからこそ、こういう正面衝突の事故になってしまったのです。
今もこの友人とは、ネガティブな話は一切しません。彼女と私の間ではそういう付き合い方に落ち着いています。)
ちなみにこれは、ただ「相手が自分の愚痴を聞いてくれるかどうか」を見極めることではありません。
それは、「この人は私の期待に応えてくれるかな?(私の役に立ってくれるかな?)」という一方的な「依存」ですね。これだと重たい人になってしまいます。
そうではなく、自分が心地良い距離感、相手が心地よい距離感、話題、コミュニケーションの方法などを誠実に確認しながら、相手との信頼関係を作っていく作業です。
その信頼関係の結果として、コミュニケーションの一つとして愚痴を聞く、聞いてもらう、のもできるようになっていく相手もいる、ということですね。
なので、まぁ、普通に友人関係を深めていく、ということなのですけれども。
別に愚痴を言うことが目的で人間関係を作るわけではないですけどね。
でも、お互いの距離の取り方やコミュニケーションの好みを尊重しつつ、愚痴が言えるかなども含め、いろんな深さの人間関係を主体的に選んだり作れるようになったら。
ちょっと大袈裟ですが、人生をバージョンアップできたくらいの充足感が感じられると思います。
そんなつもりで、気長に取り組むと良いんじゃないかなと思っています。
で、本当は最後に「愚痴れる自分になる方法」も書きたかったのですが、すでにかなり長くなってしまったのでこれはまた次回にします。
これも大事なので、また読んでいただけたら嬉しいです♪
(これは、「自分も誰かに愚痴って良い」という許可を出すのとはまた別の視点で、上で書いた「信頼関係」をもうちょっと深めるお話になります。)
参考になればうれしいです。
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閑話休題。
運河にはたまに白鳥がいます。なんて優雅☆