何かがしんどい、何かが窮屈と感じるとき

日常生活に何か深刻な問題があるわけじゃないのだけど、

何かがしんどい、何かが窮屈

と感じるのも、頑張り屋さんあるあるじゃないかなぁと思うのですよね。

 

でも、明らかに何が問題という訳でもないので、

まぁ、でも、これで良いんだろうなぁ

と、自分で自分のお茶を濁しながら日々をやり過ごしている、という。

 

傍目にも、いろいろ卒なくこなしているように見えるんだろうな、というのも分かるので、

なんとなく人には相談しづらいし。

でも人によっては、たまに軽くキレちゃって周りをちょっと驚かせたり、とかもあるかもしれません。

 

それぞれの方にそれぞれのお話があるものですが、一番根っこにあるのは

自分らしさを我慢している

ということだと思います。

 

「自分らしさ」ってまた安っぽいようなふわふわしたような大袈裟なような言葉ですが、要は

無邪気だったりパワフルだったり感情的だったり遊び心があったりおっちょこちょいだったり

とか、そういう、頑張り屋さんが実は隠し持っている「素」の部分ですね。

 

「隠し持っている」と書きましたが、

頑張り屋さんはそういう「自分らしさ」を、周りの目や常識やいろんな「べき論」の理性に鑑みて、我慢して隠して溜めこんでいる

んですよね。

で、そういう「自分らしさ」「素の部分」「本来の姿」を厳重に隠して抑え込んでいる時、

心晴れやかに生き生きと過ごせるはずがありません。

 

なので、

何かがしんどい、何かが窮屈
いつも心が疲れて擦り減っている

ような感覚となって、日常生活にどこか生き辛さを感じてしまうのだと思います。

 

更に言うと、頑張り屋さんは

無邪気でパワフルで感情的で、という「素」のままで生活するなんて間違ってる!
理性的に行動するのが正しい!

と思っている方も多いので、

しんどさとか窮屈さを感じながら生きるのが人生、と、無理やり自分に思い込ませていることもあるかもしれませんね。

 

ただ。

もし今、何かがしんどい、何かが窮屈、という思いが、何となく無視できないくらいには大きくなってきているのだとしたら。

それは、

もうこの感覚を無視しないでほしいな

という、「本来の自分」からのSOSなのかもしれない、と思ってみてあげてください。

そろそろ、「我慢」という蓋を被り続けるのは限界みたいなの

と、「本来の自分」が教えてくれているのかもしれません。

そろそろ蓋を外す時期が来ているのかもしれません。

 

ちなみに、

「本来の自分」とか「自分らしさ」とかの言葉が、何か嘘っぽいとか安っぽいとかふわふわしてる

とか感じられるとしたら。

まさに私自身がそうだったのですが、それも、とても強固な「我慢」の蓋を被っていることの証拠です。

その蓋の内側にいる「本来の自分」がそれらの言葉に刺激されて騒ぎ出さないよう、

その蓋をかぶって「そんな安っぽい言葉には踊らされないわ」と思っているのですね。

 

んー、そんな時は、やっぱり

もう、そろそろそんな可愛い抵抗やめちゃいなよ☆

と提案してみようかな!と思います。

そんな、マンホールの蓋みたいな頑丈な「我慢」の蓋、重いだろうなと思うのです。

そろそろ外してあげても、良いのじゃないかなぁ?と思うのです。

 

・・・でも。

外したくても外せない、外し方が分からない。

なんてこともあるかもしれません。

そんな時は、よかったら、お話聞かせてください

一緒に外してあげましょう♪

閑話休題。

おやつ待ちの鳥さんに遭遇!