般若なわたしと大人の色気。

「凛とした」「クールな」「優等生な」
イメージに見られることも多いのだけれど、
わたしは、般若な女なのである。

 

こんにちは、オランダ在住カウンセラー、コバヤシアキコです。

 

自分迷子な大人女子さんが、本気で人生を取り戻すお手伝いをします。

 

わたしは、嫉妬の女。

わたしは、嫉妬の女である。

可愛いクラスメート
キャリアを重ねる優秀な同僚
「楽な人生」を生きてる(ように見える)人
なんかキラキラしてる人

羨ましい。死ぬほど妬ましい。
だから目障り。嫌い。大嫌い。
悔しい。ふん、大したことない。
どうせ、私には何もない。

ありとあらゆる人に嫉妬の炎を燃やしてきた。

わたしは、正真正銘の、嫉妬の女なのである。

 

わたしは、怒りの女。

わたしは、怒りの女である。

私の人生を土足で踏み荒らした過干渉オカン
私を笑いものにしたクラスメート
私を笑いものにした同僚
私を利用した友人

許さない。絶対に、許さない。

何かが掛け違ってしまったら、本当に相手を殺せてしまうと思うほどに、

まさにキ○ガイのように、怒り、憎んだ。

わたしは、正真正銘の、怒りの女なのである。

 

わたしは、般若な女。

そして、般若、である。

現在、一般的に知られている「般若」は、能における鬼女の面であり、

嫉妬や怒りや怨念で狂った女の怨霊とされる。

こういうの。

まさに、わたし、なのである。

私は、般若に通じるものを、自分の中に感じてしまうのである。

(とはいえ、能で表現されるのは、男女関係のもつれによる感情のことが多いようだけど。)

 

だからなのか、

私は「般若」という言葉を日常でも結構カジュアルに使っていて

(「今日は般若の形相で、近所の公園ランニングしてきた♡」みたいに←普通こんなふうに言わないものなの?)、

今までに書いた記事の中でも、「般若」という言葉を何度か使っていた。

 

主に怒りについての記事(表現)ですな↓

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どうやら私は、ナチュラルに般若らしいのである。

 

般若の哀しみ。

ところで、

般若の形相というのは、怒りや恨みや嫉妬による、激しく怖ろしい表情だけではない

ことは、ご存じだろうか。

 

悲しい、のである。

能面「般若」(重要文化財、東京国立博物館蔵)

般若は、その大きく見開いた目もとに、それは深い悲しみを湛えている。

ただ怒り狂っているだけ、では、ないのである。

 

自らの存在が、まるっきり無価値であると伝えてくるかのような数々の理不尽な出来事への、悲しさ。

自らの嫉妬、怒り、怨念に飲み込まれ、人間の姿さえ失って鬼となった女の、哀しさ。

 

般若のこの形相は、

外に向かい、恨む相手を取り殺そうとする「怨念」の現れであるのと同時に、

自らの内側に向かい、人間でさえいられない恥ずべき自分を葬り去ろうとする「絶望」の現れなのではなかろうか。

 

ナチュラルに般若な私は、

そんな、鬼女となった女の、この悲しみや絶望もまた、良く分かる気がしてならないのである。

 

般若の哀しみを、愛する。

仏教用語としての「般若」は、能における般若とはまた異なり、

「智慧」を意味するのだそうだ。

智慧。普遍的な、世の中の真理。悟り。

 

私たちは皆、智慧を授かって生まれてくるのだけれど、

成長と共に煩悩にかき消されて、智慧を見失ってしまう。

 

人が生きることが、見失った智慧をもう一度見つけ直すプロセスであるとしたら、

般若な女にとっての生きること、つまり、智慧と繋がるプロセスとは、

般若な自分をさえ赦し愛するほどの、「慈愛の人」となること

でもあるのかも、なんて思ったりもする。

 

般若な女の、大人の色気。

私は今、

オカン、わたし、大人の色気。

をキーワードに活動している。

 

「色気」の定義はそれこそ人それぞれ、なんだけれども、

私は、

自分の中にある、般若になるほどのおどろおどろしさも、

それを、クールで凛とした優等生の風情で必死に隠している自分の滑稽さも、

すべてを笑って赦し愛する、その覚悟と、その懐の深さと、その智慧に、

とてつもない色気とかっこよさを、感じてしまうのだ。

 

そんな色気を目指す大人の女でありたいなと、思うのだ。

 

私は、般若な女である。

それもまた好き哉と、今日も笑っておこうと思うのである。

 

コバヤシアキコ

 

今日の一枚。

可愛い一角。

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