こんにちは、頑張り屋さんの女性を自由にするカウンセラー・コーチ、コバヤシアキコ@オランダです。
可哀想なお母さんを放っておけない。
なんて思いをお持ちの方は、頑張り屋さんの女性には多いのではないかと思います。
そんなわけで、今日は久々に「お母さんネタ」です。
「可哀想なお母さん」にもいろいろあって、
父親との夫婦仲が悪かったり、嫁姑問題で苦労していたりして、お母さんが分かりやすく「可哀想な人」になっている。
だから私がいつも気にかけて、助けてあげないと。
なんてケースもあれば、
昔から、いろいろ口煩くいちゃもんはつけてくるし、私のことなんか何も認めてくれないし、分かってくれないし、
お母さん、酷くない?!と文句を言いたい気持ちはたくさんあるのだけど、
でも、自己肯定感も低くいろいろ生きづらさを抱えた不器用なお母さんは、
自分にとってはやっぱり「可哀想な人」でもあって、
少しずつ老いていくお母さんから、ただ距離を置く、ということも、申し訳なくてできない。
結局いつも、何かしら頭にきながらも、あれこれ世話を焼いたりしている。
なんてケースもあります。
で、この、「お母さんは可哀想な人」という感覚の奥には、
お母さんへの罪悪感
が隠れていたりします。
私がお母さんを幸せにしてあげなくちゃいけないのに、それができていなくてごめんなさい
というような気持ちでもあるのですね。
例えば、最初の「分かりやすく可哀想」な例では、
子供の立場から、当時のお母さんの苦労を軽くしてあげられることはほとんどないことが多いわけで、
すると、とても分かりやすく「助けてあげられなくてごめんなさい」という罪悪感を感じるようになったりします。
それから、両親の仲が悪くて、お母さんはお父さんからあまり大事にされていなかったけど、娘の私はお父さんからとても愛されていた、なんて時は、
「お母さんよりも愛されてしまって、お母さんを寂しく可哀想な状態にしてしまってごめんなさい」のような罪悪感を、
知らないうちに抱えている方も(意外とたくさん)いらっしゃいます。
また、「生きづらさを抱えた不器用なお母さん」の例では、
お母さんは、あまり幸せではない自分の人生をの穴埋めをするように、娘を思い通りにしようとしたり、
お母さん自身が、自分の「ダメなところ」を娘の私たちに見て、まるで自分にダメ出しするように娘にダメ出しする、みたいな形で、
その生きづらさを娘の私たちにぶつけることもたくさんあります。
どちらも全く無意識にやっていて、悪気は全然ないんですけどね。
で、娘からすると、当然たくさんの反発を感じるのですが、そこで同時に、
「お母さんを笑顔にできるような優れた人間でなくて、むしろ反発を感じるような人間で、ごめんなさい」
と、やはり罪悪感を感じたりします。
反発の方が大きくて、罪悪感はあまり意識していないことがほとんどですが、この罪悪感も、実はとても強かったりします。
で。
この「罪悪感」は、「癒着」という状態を作りやすくなります。
いつもお母さんのことが頭の中にある、つまり、放っておけない状態になる、んですね。
これは、また別な言葉でいえば、自分とお母さんの「境界線」がない状態とも言えます。
私自身の人生なのに、自分のものではない
みたいな感覚があったりしないでしょうか?
さらにそこをもう少し見つめてみると、
どこか、自分ではなくお母さんのために生きているような、そんな感覚が見つかったりもします。
本当に、お母さんが大好きで、助けてあげたい、幸せになってほしい、
そんな、「愛の塊」みたいな人だからこそ、
お母さんを幸せにできていないことに強い「罪悪感」を感じ、
例え頭にくることがあったとしても、やっぱり可哀想なお母さんに意識を注ぎ続け、
お母さんの気に入るように、お母さんが少しでもご機嫌になってくれるように、心を砕いて、
まるでお母さんのために生きているわけですけれども。
(そうしないと、私が存在することは許されない、くらいの感覚が心の奥にあることもあります。)
ですが、
この「癒着」した状態、というのは、先ほども書いたように、
自分の人生を見失っているような、息苦しい状態です。
お母さんと私の、成熟した大人の女性同士の関係としては不自然でもあるし、
息苦しさ、生き辛さをお互いに(まぁ、特に自分自身が)感じ続けることになります。
なので、ここはやっぱり、
癒着を切り、境界線をしっかりと引き、お互いに精神的に自立していきましょう
ということになるんですね。
で、じゃ、どうやって?です。
…が。
既にちょっと長くなってきているので、続きは次回に書いてみますね!
楽しみにお待ちいただけましたら嬉しいです♪
ではまた!
*
閑話休題。
秋の色。