今回は、
あなたは思考派?感覚派?
というタイトルにしました。
頑張り屋さんの皆さんは、普段は思考が超優位な状態で生活していると思います。
- ~するべき
- ~でなければならない
- ~の方が理に適っている
- ~が正しい
- ~が常識
などなど、いっぱいありますね。
思考はだいたいは社会通念的にも大多数に受け入れられることが多いので、思考に基づいていろいろの判断をするのは安心感があります。
だからこそ思考に頼って日々の生活を送っているというのもありますね。どんな選択をしても、考えて出した結論はだいたいは理屈が通るし、他人から間違いを指摘されることも少ないですからね。
これに対して感覚は、だいたいは非常識ですね笑
全然合理的じゃないし、あまりに無邪気だし、論理で説明できる確かさは何もないし、そうすべき理由は何もないし、これらの理由で周りからも非難されることも多いでしょう。
が。
私のメルマガを読んでくださっている頑張り屋さんは、
実は隠れ感覚派の方が多いんじゃないかな~?
実は本当は自分の感覚的な部分もそこそこ信じているけど、でも常識ある大人はこんな馬鹿げた感覚を思考より優先するなんて、だめ、絶対。とまた頑張って自分を律しているんじゃないかな~?
と思ったりしています。
というのは、
超思考的な頑張り屋さんとしての生き方のそこここに、ほつれが出てきているんですよね?
なんか疲れたな…と思っているんですよね?だからこのメルマガを読んでくださっているんですよね?
ということは、もしかすると、気付かないふりをしてるけど、本音の本音では、自分の感覚的な部分にもうちょっと光を当てたいと思っているのかも、しれませんね?
何を隠そう私自身がそんな感じだったんですよね。
転職先を選ぶのもその後留学したのも、そうすることが私の履歴書を世間一般的に自慢できそうな内容にしてくれるから、でした。そこには、私が心からわくわくすることとか楽しいことは何一つありませんでした。
でも、それが「正しい」選択だったし、友人など私にとっての「世間」は私の選択を「すごいね~!」と言ってくれたので、私もそれに満足&安心し、それを疑わずに粛々と頑張り続けました。
でも同時にすごーく感覚的な部分も自分の中に実はあったし、自覚してもいました。
例えば転職活動をしていた時、業種やポジションなどは思考を使って「今後の履歴書上の見栄え」で希望先をリストアップしていきましたが、最終的に会社を選ぶ際は結局理屈抜きで「あ、なんか私はここに行くことになるな」でさくっと決めました。
留学先も、超エリート校も含めてリストアップしたものの、最終的にはあまり名の知られていないところに「あ、私ここに行くんだわ」で決めました。
なので私の場合、通常は思考でがちがちなのですが、その思考で固めた範囲の中でたまに、まるで理屈の通らない感覚に突然GOサインを出してしまう、というちぐはぐな感じだったように思います。
では、私はその後どうやって思考の鎧を脱ぎ、本来の感覚に立ち返るようになったのかというと。
私の場合は、その後いよいよ「もう頑張れません、無理です」となった頃から、思考に自分を従わせる体力が出てこなくなってしまったんですね。頑張るというのは、感覚的にはあまり信じていないことでも、思考的に正しいはずということに無理やり自分を従わせることでもあるんだな、と今なら思います。
そして、感覚的に、「あ、なんか楽しそう」「これなんか好き」と感じたり、「あ、これ私が今からやることだ」と腑に落ちることしかできなくなってしまったのです。
それでもつい最近まで、やはり頭で考えて「これはやっておくべきだ」ということをずっと手放せずにいたんですけどね!それもついに昨年、「いやだめだ、もうギブ…」と手放しました。
今このメルマガを読んでくださっている皆さんは、まさにこの辺にいらっしゃるのでは?そろそろ思考に従い続けるにも限界を感じていて、でももっと頑張らなくちゃいけないのに~というところのせめぎ合いなのでは?と思うのですが、どうでしょう?
思考は自由を奪います。
そりゃそうですよね、「世の中はこういうもの」「これが正しい」「大人はこうでなければ」「キャリアはこうして積み上げるもの」などなどの思考の世界では、答えが既に決まっているのでそこに自由はありません。
逆に感覚は、自分の感覚が全てですから完全に自由です。
自分が理屈抜きでわくわくして好きと思えることが自分にとっての「真実」で、それを自分にさせてあげるのが楽しくて仕方ない世界です。
感覚は、思考のように自分を疲弊させません。むしろ感覚に従うほどに心の体力がついてきます。そして、心を幸せで満たしていきます。
ただし感覚に従うということは、すべての責任を自分で取るということでもあります。
思考的に導いた答えは自分の感覚の外にあります。なので何かがうまく行かなかったときには、その答えを責めることができます。「ちゃんと正しいことをしたはずなのに!」みたいなことですね。
でも、自分の感覚に従って行動したとき、結果として何が起こってもそれを誰か・何かの責任にすることはできません。自分がその落胆などを引き受けるしかないんですよね。
その意味では、感覚に従うのは自由である一方で、ちょっと怖さも感じます。
この怖さが、たくさんの方が自分の感覚を信じるのをためらう理由でもあるのでしょうね。
(実際には、感覚に従っているときは、何かが起こっても絶望するよりはすぐ次について建設的に考え始められるものですが)
ちなみに、私の友人の中には超思考優先で、そういう生き方が自分に一番合っている、という人もいます。で実際彼女にはそれが本当に合っているんだと思うんですね。
なので、誰彼構わず「感覚を信じちゃいなよ!」と言うつもりはないのです。
が、先ほど書いたように、もし今、思考的な生き方にちょっと疲れたような気がしていて、そして自分の感覚的な部分にも結構心当たりがある、という場合は、日常の中でその感覚を活かす場面を意識的に作ってみることを提案したいです。
「どう思うか?」じゃなくて、「どう感じるか?」ですね。
「ダイエットのためにはケーキは我慢しなくちゃいけないと思うからやめとく」じゃなくて、「ダイエットも大事だけど今私はすごーくミルフィーユを欲してるからその声に従っちゃう!」ということです。
「この服は職場ではちょーっと目立って良くないと思うのでやめとく」じゃなくて、「なんか華やかな気分になりたいから楽しく着ていっちゃう」です。
コツは、感覚で選んだことを楽しみつくすことですね。
そして、感覚を信じて行動するときは、周りが何を言っても聞き流し、その声から自分を守ってあげることです。にっこりと「そう?私は今こんな気分なの♪楽しいよ!」で終わりです(というか、楽しんでいると周りの声は耳に入らなくなります)。
そうやって聞き流せていると、周りは何も言わなくなっていくし、むしろそんなあなたの在り方に感化されていきます。そうなってきた頃には、やけに自分が自由になっていることに気づいてニヤッとしてしまうでしょう。
ここまで読んで、あら、なんか、それも良いかもね…?と、ちらっとでも思った方。
是非、ご自分の感覚を信頼して、活かす機会を作ってみてください。
楽しいですよ♪←さっきのノリでね
参考になればうれしいです。
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閑話休題。
愛の南京錠がたくさん吊るされた橋。アムステルダムの中でも人気の写真スポットです。
運河と教会が本当にきれい。