コロナで考えるオランダの人種差別と自己価値感の話

今回は、

コロナで考えるオランダの人種差別と自己価値感の話

というタイトルでお話してみようと思います。

 

オランダは、他の欧米の国と比べてもアジア人が差別を感じることが少ない国だと思います。これは個人的な感覚ですが、他のアジア人の友人も同じことを言っていたので、恐らくそんなに外れてもいないと思います。

なんですが、やっぱり残念な思いをすることはあります。

例えば先日、スーパーのレジで、私の直前のお客さん(おそらくオランダ人)には笑顔で対応していた店員さんが、私には明らかに不愉快そうな対応でとても悲しくなったことがあります。

差別意識というのは、まぁどこにでもあるものなのねぇ、と思います。

(あ、でもオランダ大好きなのでオランダを擁護するために言うと、この経験は珍しい方です。日々こんな経験をしているわけではありません。)

 

コロナの騒ぎが大きくなってからはさらに意識するようになりました。

日本でもニュースになっていたかと思いますが、コロナウィルスの広がりでアジア人への風当たりが強いのはやはり本当のようで、具体的にそんな経験をしたというオランダ在住の日本人の方のツイートも見かけました。

また私自身は、先日スーパーですれ違った女性に「ちっ」と舌打ちされました。

この女性は恐らくとある国(または地域)からの移民なんですね。この地域の人は、ちょっとしたネガティブなことに触れると舌打ちをするのです。あと例えば、「いいえ」の意味とか、映画とかでちょっと悲しい場面を見た時なんかも舌打ちをジェスチャーとして使います。

そんな感じで、日本の舌打ちよりはずっとカジュアルで弱い意味なのですが、少なくとも今のコロナのタイミングでアジア人女性である私に舌打ちしたということは、恐らくは私をコロナウィルスと結び付けてのジェスチャーだったのだと思います。

 

最初はこれ、やっぱりとてもショックでした。

あぁ、私もウイルス扱いされちゃうんだ…

と泣きたい気分にもなりました。それから、

あの舌打ちの瞬間にくるっと振り返って「私はウイルスじゃない!」って言うことができてたらスカッとしたのに!

と激しい怒りにもかられました。

しばら~く、ぐるぐるモヤモヤめそめそイライラしていましたね笑

 

でもここは、自分の中をいろいろ掘り下げるのが好きな私ですから、ちょっと落ち着いたらいろいろ考えました。

 

一つ大きな気付きがあったのは、この女性も、私とまったく同じように「コロナが怖い」と思っているはず、ということです。

彼女にとっては、コロナ=アジア、なのでしょう。そして、たまたまスーパーでアジア人(私)を見かけて、日々怖い怖いと思っているその恐怖が改めて思い出されたのでしょう。

それに対して彼女は「ちっ」とやったんですよね。

つまり、彼女が舌打ちしたのは、「コバヤシアキコという個人」の存在がウイルスのように迷惑で消えてほしいから、ではなく、彼女がアジア人である私を通して再確認した「自分の中にある恐怖」に対して、なのです。

 

この気付きはとても大きいです。

彼女の私に対する舌打ちというジェスチャーと、私個人の存在価値を結び付けずに考える。

もっと一般化していうと、相手が自分に何を言っても何をしても、それが私自身の存在価値を変えることはない、私には変わらず価値がある、ということでもあります。

言うは易しですが、実際にそれを忘れずにいるのはなかなか難しいものです。だってやっぱり、舌打ちされたり何か理不尽な言いがかりを付けられたり、もしくは理路整然と否定されたりとかしたら、悲しいですもの。

でも、このことを頭に入れておくと、たとえその瞬間は悲しく感じたとしても、

「あぁ、この人にはこの人の事情や考え方があってこういう行動をしたり言ったりしたのだろうけれど、それと私の存在価値には何の関係もなかったね」

と、正気に戻ることができやすくなります。

これができると、相手がどこかの外国人であれ日本人同士であれ、感情的な衝突をしたり我慢してネガティブな思いを溜めこまなくなるので、人間関係がとても楽になりますよね。

 

もう一つには、私の中のアジア人コンプレックスも相当大きいな、という気付きもありました。

アジア人の私はどうせ差別される。アジア人は他の何かしらの人種より下。そんな思い込みが自分の中にあるんですよね(ちょっと考えれば、「下」って何が?って話なのですが笑)。

なので今回の出来事で、この女性の舌打ちに私の中のコンプレックスが大いに刺激された、ということなのです。

でもこれについても、先ほどの「私には変わらず価値がある」という気付きから新しい視点を得ることができました。

なぜならこれは、私の肌や髪や目の色が何色でも、人種や国籍が何であっても、それについて相手が何を言っても言わなくても、私の存在にはやっぱり変わらず価値がある、ということでもあるからです。

ついでに言うと、私の存在には厳然とした価値があるのとまったく同じように、先ほどの舌打ちの女性にも、どこかからの移民であろうと何であろうと、舌打ちをしようとしなかろうと、やはり厳然とした存在価値があるということでもあります。

私もこの女性も、等しく価値のある存在だ。そこに上下はない。

今回の一件で、それが腑に落ちたのでした。

 

こんな風に、今回の出来事は

  • 「相手」の言動と「私」の価値を明確に分けて考えること
  • 相手も私もまったく同じように価値がある存在だということ

を、改めて私に教えてくれました。

自分は自分、あなたはあなた、と、相手と自分を切り分けることは、健全な自己価値感を持つためにとても大切です。これは、相手がパートナーであれ友人であれ親であれ上司であれ同僚であれ部下であれ、必ず言えます。

もし今、あなたが周りの誰かの言動に振り回されて疲れているように感じているとしたら、相手と自分の切り分けがあいまいな部分があるのかもしれません。

そう感じたら、まずは自分と相手の境界線を意識してみてくださいね。いつものアファメーション、「自分は自分、あなたはあなた」です。

それから同時に、「自分は誰が何と言おうと(自分で信じられなかろうと)価値ある存在だ」ということも意識してみてください。

ちなみにこの自己価値感を上げる方法については今までのメルマガでもちょこちょこ触れていますが、また改めて別の機会にも書いてみようと思います♪

 

今回の件のように、経験としては愉快なものではなかったとしても、そこには必ず気付きがあるんですよね。

そう思うと、一見ネガティブなことがあっても、「あら、今度はどんな気付きがやってくるのかしら☆」と一歩引いたところから眺められるようになってきます(なかなかうまく行かないこともありますけどね)。それってちょっと楽しいと思いませんか?

是非そんな楽しいところをご一緒に目指していきましょう♪

参考になればうれしいです。

閑話休題。

これは去年撮った桜の写真です。

今年は外出自粛でお花見ができなかった方も多いのでは、と想像しています。

でも、コロナが収束したらあれをやろう、これをやろうといろいろ想像して、遂にそれができた暁には本当に嬉しいだろうな~!と思うんですよね♪

その日を楽しみに、今は何をしたいかいろいろ妄想中です。