「やる気」の精神論の奴隷、いつまでやり続けますか?

今日は、

「やる気」の精神論の奴隷、いつまでやり続けますか?

というタイトルにしてみました。

 

やる気って言うと、「気分が乗らなくても自分を律して課題や仕事に取り込むこと」とか、「苦しいことでも厭わず取り組む精神力」みたいなイメージですよね。

で、頑張り屋さんは、このやる気を駆使してやりたくないことでも日々粛々とこなしていらっしゃる方が多いんじゃないかと思います。

 

でもですね、それがだいぶ苦しいんですよね。

もうやる気が持たないというところまで来ているんじゃないかなぁ、と思うのです。そうでなければ今このメルマガは読んでいらっしゃらないだろうと思うのですよね。

 

そもそも、なんでやる気が必要なのかと言えば、「気分が乗らないから」だったり「苦しいこと」だったりするからです。だって、好きなこととかやりたいことなら、やる気なんてなくてもほいほいとできちゃうじゃないですか。

つまり、もともとやりたいことじゃないからこそ「やる気」が必要になるのですよね。

 

でもそこで、責任感の強い頑張り屋さんは、やる気が出ないのは「甘え」だとばっさり切り捨てて、本当はあまり気分が乗らないとか苦しささえ感じている自分の内側は全力で無視し、自分を引きずるようにしてお仕事を全うします。(しますでしょ?)

こう、自分で自分を馬車馬のようにこき使っている図、イメージできるでしょうか?

そりゃ苦しいよね、と思うのです。

ちなみに私の場合は、「そんな苦しささえ乗り越えて責任を全うする私って素晴らしい」と、自分に酔うことで苦しさを無視していたように思います。もう自分で自分を洗脳しているような笑

 

他の回でもお伝えしていますが、シンプルな提案は、「やる気がないとできないような『本当はやりたくないこと』は、苦しさの元にしかならないので思い切って止めちゃいましょう」ということになります。

本当はやりたくないことを自分に無理やり(やる気という名のもとに)やらせるのは、自分を拷問にかけているようなものです。

それから、自己肯定感にも直結します。

これはほんとに私自身も実感してるんですよね。

やりたくないことを「でもやらなくちゃいけないことだから。みんなそうしているんだから。社会はそうやって回るものだから」と無理やりこなしていた時は、本当に自分が嫌いだったし、なんというかとても「不幸」でした。

酷使されている馬車馬が幸せそうにしているのって想像つかないですよね笑

でも、やりたくないことを思い切って一つずつ手放していったら、あの重苦しさとか薄幸感がどんどんなくなっていきました。そして、やりたいことに使う時間が増えるほど、根拠もなく自分が好きだと感じられるようにもなっていきました。

それくらい、「やる気」という言葉で自分への拷問を正当化することは自分へのダメージが大きかったんだなと思います。

 

ちなみにこのシンプルな「やりたくないことを止める」ということ、すごく無責任なことのように感じるかもしれません。

でも、必ずしも責任をまるまる放棄しなくても、やりたくないことの「要素」を減らす・なくすことはできたりします。

 

例えば、「掃除をしたくない」とします。ここで、じゃ、掃除にまつわる何が嫌なのかな?と考えてみます。

もしかすると、掃除をして家の中がきれいになることは実は気分が良くて好きなのだけど、家庭の中でいつも自分だけが掃除をしていて、召使みたいに感じることが嫌なのかもしれません。

ということは、やめたいのは「掃除」ではなく「召使みたいに感じること」ですよね。

それなら、家族に一緒に掃除することを提案してみる、というのも一つの手かもしれません。あるいはお掃除ロボを導入するという手もあるかもしれません。

こんなふうに考えると、責任感の強い頑張り屋さんにも「それならできるかも」という気がしてきませんか?

やりたくないことはやらないというのは、全て投げ出して逃げるという訳ではないのですよね(場合によっては、むしろまるまる止めるのが良いこともありますけれども)。

 

というわけで、今「やる気」という精神論の奴隷になっていると感じている方には、

・やる気がなくても自然にできちゃうことに集中すること
・やる気がないとできないようなことは思い切って手放すこと、そういう要素を減らしていくこと

を試してみてほしいなぁ、というのが今回のコラムの結論でした。

参考になればうれしいです。

閑話休題。

アムステルダム中央駅をちょっと高いところから眺めた写真です。屋根にAmsterdamって書いてあります。

新型肺炎やインフルエンザなど、不安なニュースを読んでいます。

皆さまどうぞ自愛くださいね。

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