頑張り屋さんの「自分が良く分からない」という感覚の正体とは?

今回は、

頑張り屋さんの「自分が良く分からない」という感覚の正体とは?

というタイトルにしました。

 

私はずっと、自分がない、自分が良く分からない、という感覚に悩んでいました。

10代の青春真っただ中ならいざ知らず、20代、30代になってもその感覚はずっとありました。

やらねばならないことはそこそこきちんとやる真面目な人間で、頑張り屋さんだという自覚はあるのです。

でも、自分が何にどんな意見を持っているのか分からないし、どんなことが好きでどんな時間の過ごし方をしたいのかとか、そんなことはさっぱり分からず、自分という人間の実態が全然見えませんでした。

なので、ずっと「自分探し」をしていた気がします。

 

一つ覚えているのが、30歳直前で会社員を辞めてアメリカに留学するとき、知り合いに推薦状を書いてもらったんですね。その際、既に書いてあった自分のエッセイ(出願のための作文)を資料としてお渡ししたのですが、そのエッセイを読んだこの方、「青いですね(笑)」とおっしゃいました笑

こう、アメリカで学業を修めた暁には自分という人間が少しは見えてくるに違いない!という、ちょっと方向を間違えた変な情熱が、30歳手前のエッセイから滲み出ていたのだと思います。

いや本当に、たくさんの迷走を重ねてきたものです笑

 

ちなみに当時、自分についてほとんど何も分からないような感覚の中で比較的良く分かっていた感覚があって、それは、相手に適当に扱われたと感じた時の「イラッ」という感覚でした笑

「どう扱ってほしいのか」の方は自分でも良く分からないのですけどね。そして、普段は嫌なことがあっても我慢してしまうので、「イラッ」の方も強くは自覚しないのです。

ただ、「こうは扱ってほしくない」感じが積もって危険水域に到達すると、「イラッ」が発動して自覚するという感じだったように思います。

 

つまり当時の私は、目に見える部分では頑張り屋さんとして常識ある大人的な行動はしているけれど、目に見えない内側を見ると、自分の人となり、好み、考え方、などについては雲を掴むような感覚しかなく、辛うじてネガティブなことへの最低限の感覚だけ残っていた、という感じだったと思います。

これ、意外と「確かにそういうとこある!」という方いらっしゃるんじゃないかと思うのですが、どうでしょう?

 

頑張り屋さんがどうしてこうなるかと言うと、もちろん子供のころから「良い子」をやってきたからですよね。

ここでいう「良い子」というのは、

  • 親とか先生などの大人が「正しい」とすることを、自分の意見や感覚は関係なく素直にインストールしてその通りやってきた子、でもあるし、
  • 過干渉な親の言うことが全てという環境で、自分の意見や好みを持ったり尊重する機会を持たずに育った子、でもあるし、
  • 大人が求めることを瞬時に感じ取って、都度それに合わせた行動やキャラを取り入れることができちゃう器用な子、でもあるし、
  • 自分の意見や感覚を蔑ろにしてきた結果、大人だけでなく同世代の仲間の前でも自分の意見や感覚を表明することが怖くてできないし尊重される価値があるようにも思えない子、でもあるし、

この全部、かもしれません。

 

要は、自分で自分を知って表現する機会がないまま大人になった感じですよね。

子供の時にやることをやり残していて心の一部がそのやり残したことに囚われているため、どうも自分は何かが子供っぽい(んだけど何がどう子供っぽいのか良く分からない)、と感じている方もいらっしゃると思います。

それだけ頑張って周りに合わせてきたからこそ、なので、やっぱりここでも健気で愛すべき頑張り屋さんだからこその現象だなぁ、と思うのですけれども。

こんな風にして、頑張り屋さんの「自分が良く分からない」という感覚ができてくるのですね。

 

というわけで、そんな「自分が良く分からない」と感じる頑張り屋さんに試してほしいあることをご紹介します。

先日のコラム「頑張り屋さんの本来の姿の見つけ方」でも、頑張り屋さんでなければ一体どんな自分が見つかるだろう?という視点で行うエクササイズをご紹介しましたが、今回はまた別のアプローチです♪

 

別のアプローチとは言いましたが、これも今までにも触れていることではあるのですけども。

何をするかと言うと、自分の「好き」「嫌い」「楽しい」「つまらない」「嬉しい」「ムカつく」などの感覚を地味に突き詰めていく、ということです(んー!地味だ!笑)。

家事でも仕事でも人に会う時でも、何かをするときにいちいち

「私は○○が好き・嫌いでこれをやってる」
「私は○○が楽しくて・つまらないけどこれをやってる」
「私はこういう人と過ごすこういう時間が好きだ」
「私はこの人が今言ったことにムカついている」

と(頭の中でいいので)言葉にして確認するのです。もうとにかく、何でもかんでもこうして確認することを続けます。

それから、確認したことを表現したくなったら表現するのもとても良いですね。

好きでやっているならどんどんそれを楽しんでしまえばよいし、
嫌いだけどやっているなら最低限の労力で終わらせてしまえばよいし、
心地良い相手と過ごすこの時間が好きなら、その相手を心から大事にし、その一瞬一瞬を味わって楽しめばよいし、
相手が言ったことにムカついたなら「その言い方は私は悲しい」と伝えます(「ムカつくんじゃこりゃー!」だと子供のケンカになってしまうので、あくまで冷静に自分が何を感じたかという事実を伝えます)。

 

最初は問題集の課題を解いているみたいな感じで、「これに一体何の意味が…?」と思うかもしれません。

が、積み重ねていくと、とてもシンプルなことが「あ、そうだ、確かに私はこれが好きなんだわ!こっちはやっぱり嫌いだわ!」と腑に落ちてきます。

この腑に落ちる感覚が分かってきたらしめたもの。色んなことが腑に落ちるたびに、「あぁ、確かに私はこういう人間なんだ」というのが分かってきます。子供っぽいと感じていた自分の足も、地についてきます。そしてそれが自信になっていきます。

別の回でも触れましたが、自信て「高くそびえ立って周囲が恐れおののく」ようなものではなく、「んー、あなたはそう思うのね、でも私はこう思うのよね~」とさらりと言える状態です。相手や周りや社会がどう思っていても、「ま、でも私はこうだしね♪」と意地にならずに聞き流せるとてもしなやかな状態です。

そんなしなやかさが身に付いてきた頃には、「自分が分からない」と思っていた自分を可愛いなぁと思い出せるようになっていますよ♪

(あ、人によってはすっかり自分の中身が変わっちゃって思い出せなくなっている人もいるかもです)

 

すごく楽ちんで気合いのいらない世界、是非たくさんの人に味わってほしいなと思っています。

参考になればうれしいです。

閑話休題。

写真はアムステルダム国立美術館。自転車や徒歩で通り抜けることができ、通勤・通学のために日常的に市民がびゅびゅんと通り抜けていく大事な道路でもあります。

でも今は在宅勤務だったりオンライン学習の人が多いので、ここを通り抜ける人もまばらです。