「愛されたい」より「愛したい」私たち

今回は

「愛されたい」より「愛したい」私たち

というタイトルにしました。なんだかちょっと演歌のタイトルみたいですね笑

 

前回のメルマガで、今のコロナの非常事態で考えた母と私の話を書きました。

その最後に、

「人間は本来、『愛されたい』よりも『愛したい』存在であると言います。『愛されなかった』ことよりも、『愛せなかった』ことの方が、人は苦しむのだそうです。」

ということを書いたのですが、今回はここに絡めて書いてみようと思います。

 

例えば、子供のころから親の顔色を伺い、親が正しいということを全部やり、親のために自分らしさを全て犠牲にして生きてきて、それでも親からは何の承認も得られずダメ出しされるばかり。

そして、大人になってもその苦しい過去が思い出されてどうしても怒りが湧き上がっている、とします。

その時心にあるのは、

「こんなにも頑張ったのに、なぜ認めてくれないんだ!」
「あとどれだけ頑張れば良いというんだ!」
「許せない!私はこんなにも頑張ったのに!」

という怒りですね。

 

これをさらに深めていきましょう。すると、この怒りの奥には

「私がどれだけ頑張っても親を満足させることはできない」

という悲しさがあることが分かります。

そしてなぜこれが悲しいのかと言うと、

「お父さん、お母さんに、満足してほしい」
「お父さん、お母さんが、嬉しそうにする様子が見たい」

なのに

「自分の力ではそれができなかったから」

なんですよね。

 

つまり、「許せない!私はこんなにも頑張ったのに!」という激しい怒りの奥には、「親を笑顔にできなかった悲しさ」があるのです。

こんなにも大好きな人たちを笑顔にしたかった(上手に愛したかった)のに、笑顔にすることができなかった(上手に愛せなかった)ことが悲しいのです。

親に認められなかった(愛されなかった)絶望の奥には、親を笑顔にすることができなかった(上手に愛せなかった)自分の力不足への絶望があるのです。

その悲しさがあまりにも深くて、そのままでは痛すぎて感じることができないから、「怒り」という感情でその悲しさに蓋をしてしまうんですね。

 

そうやって見ると、改めて、頑張り屋さんというのは本当に、圧倒的なほどの愛情を持っていることが分かります。

こうやって怒りを抱えてきた私たちというのは、どれだけ愛したかったんでしょう?
どれほど情熱的な愛を持って生まれてきたんでしょう?
両親が嬉しそうに幸せそうにしている様子が喉から手が出るほどに見たかったあなたは、どれほどの愛とエネルギーをそのために捧げてきたのでしょう?

それくらい、親の幸せを願っていた、自分の力で幸せにしてあげたかった、つまり、「愛したかった」んですよね。

 

確かに子供の力では、大人の事情を変えるほどのことはできなかったかもしれません。そのたびに、自分の力不足への絶望を重ね、その悲しさから逃れるために怒りも深めてきたかもしれません。

でも、そうやって必死に頑張っていた子供の頃のあなたはたぶん、今のあなたに「怒って」もらうことよりも、その当時の頑張りと愛情を今のあなたに「認めて」もらうことの方がずっと嬉しいんじゃないかな、と思うのです。

 

そんなにも自分は愛したかったのか。
そんなにも一生懸命、自分は愛そうとしていたのか。
そんなにたくさんの愛情を自分は持っていたのか。

そうやって今のあなたが理解してあげることが、絶望の只中にいた当時のあなたを救う一番の方法になるのではないかと思うのです。

 

いつも言っていますが、頑張り屋さんというのは本当に健気でいじらしく愛情深い、可愛い人種ですね!

 

最近、いろんな気付きが次々にやってきて、頭と心がパンク状態です笑

家族との葛藤とか苦しい子供時代のような「過去」の話もありますが、そんな苦しい過去を作った「そもそもの愛情の大きさ」とか既に持っている素晴らしい要素をこれからどうやって開いていくか、という「未来」の話です。

言葉になるタイミングが良いタイミング、ということで、どんなタイミングでどんな言葉になって出てくるか、自分でも楽しみながらまた配信していきたいと思っています♪

閑話休題。

たくさんの窓が並ぶ家並み。

もともと倉庫として使われていた建物ですが、今ではお洒落な住宅です。

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