欲しくてたまらなかったことは、あなたが与えるべき才能だったとしたら?

今回は、

欲しくてたまらなかったことは、あなたが与えるべき才能だったとしたら?

というタイトルにしました。

 

例えば、親に対して

「もっと私を理解してほしかった」

という思いがずっとあったとします。

子供としては当然の欲求ですよね。親に理解されたと感じられなければ、その感覚は強い寂しさや孤独感となってずっと心に残り続けたりもします。

 

そんな時、心の中には

「こんな風に理解してくれればいいのに」
「こういうところに気づいてくれればいいのに」
「なんでこれが分からないんだろう」

と、たくさんの欲求不満が渦巻いています。

そして、大人になってから、知らないうちにその満たされなかった思いを恋人やパートナーにぶつけてしまったり、なんてことも良くあります(これについてはまた別の記事でお話しようと思います)。

 

でも、実際問題、当時の親には、私の望むやり方で私を理解することはなかったわけです。悲しいですけれど。

親は親自身が考える最善の方法で理解をしていたのかもしれません。それが私に通じていなかっただけかもしれません。

もしかすると、親自身が例えば「養うこと」には興味があっても「理解すること」そのものにはそれほど興味がなかったのかもしれません。

ただ単に、じっくり理解する余裕がなかったのかもしれません。

親自身も、理解される経験がなくてどうやって他人を理解して良いのか分からなかったのかもしれません。

いずれにしても、私が価値を見る「理解」は、親には与えることができなかったのです。

 

そして、そこにはもう一つとても大事な事実があります。

それは、あなた自身が、理解すること・されることの価値を良く分かっていて、その方法もまた良く分かっている、ということです。

 

確かに、「理解されたいのにされない」という悲しさや不満は苦しいものです。

でも別の見方をすると、この悲しさや苦しさは、理解すること・されることの価値をあなたが知っているからこそ、感じることなんですよね。

「理解されなくても別にいいけど?」と思っていれば、これが問題になることはないのです。

そして、人を深く理解するとはどういうことか、どう理解してあげれば人は安心感を感じるかを良く分かっているからこそ、それができない相手(親)に不満を感じるのです。

 

こう考えると、この二人の登場人物の中で「相手を理解する」ことができるのは、「親」なのか「私」なのか、分かってしまいますね。

「私」なのです。「親」ではないのです。

 

確かに、親子関係という小さな世界の中で子供の立場から見ると、親にそれを与えてほしかったと思うのはごく自然なことです。

でも、一人間としてこの「親」と「私」という二人の人を眺めると、「理解する」ということの価値を分かってそれを提供することができるのは、「私」なんですよね。

つまり、あなたが欲しくてたまらなかった「理解」は、実はあなただからこそ与えることができる才能とも言えるのです。

 

これ、心理学では良く言われることなんですね。

最初にこの考え方に触れた時の私の反応は、

「えー!私が欲しかったのに、むしろ与えなくちゃいけないなんて、私損してばっかりじゃん!」

でした笑

 

でも、たくさんの気付きを経て今思うのは、これは最初は受け入れたくないけれどやっぱり真実だな、ということです。

喉から手が出るほど欲しかった。
それだけ価値があることだと知っている。
どうやってそれを与えれば良いのかも良く分かる。
そんな自分だからこそ、その価値を提供することができる。

ということなのですよね。

 

そしてこれは、「理解」でなくても何でも当てはまります。

「愛情」なんて分かりやすいですね。

喉から手が出るほど愛情が欲しかった。
つまり、愛さていると感じることの充足感や幸せや安心感を誰よりもよく知っている。
どうやって愛すれば、人はその愛情を感じられるのかも、誰よりもよく知っている。

つまり、それだけ「愛する」才能を持っている。

ということなのです。

 

どうでしょう、にわかには受け入れがたいでしょうか笑

もちろん、欲しくてたまらなかったのに手に入らなかったその絶望を無視する必要はありません。そこには本当にたくさんの絶望や涙があったはずです。

それは丁寧に時間をかけて解きほぐし、癒していきましょう。

 

でも、それと同時に、自分を見る目線を一つ増やしてあげましょう

つまり、「欲しいものが手に入れられなかった絶望まみれの人間」である以上に、「それだけ大きな才能を自分が持っているのだとしたら」という目で自分を見てほしいのです

 

そして、もう一つ言うと、その才能はなにも周りの人にしか与えられないのではありません。自分に与えても良いのです。

「理解する」才能を、自分を深く理解することにも使ってしまいましょう。
「愛する」才能を、自分を深く愛することにも使ってしまいましょう。

ね、そうすると、あながち損でもないかな?と思いませんか?笑

 

ちなみに、「才能」って、狭い意味では手先が器用とか語学が堪能とかいろいろあると思いますが、ここでの意味はもう少し大きくて、「使命」とか「お役目」みたいな意味と考えると良いです。

つまり、あなたが生まれてくるときに神様が、

「はい、君はこの才能を発揮することになるからね。そして、それがどれだけの幸せや豊かさを君の人生と世の中にもたらしてくれるか、発揮すればするほど分かるからね♪」

と与えてくれちゃったんですね。もう、有無を言わせず笑

そしたらもう、やるしかありません。

神様から与えられたその才能を、世の中が待っているのですもの。

 

参考になればうれしいです。

閑話休題。

自転車がいっぱい!の初夏の風景。

日本のママチャリよりちょっとレトロ感のあるデザインの自転車が多いです。

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