頑張り屋さんが抱える慢性的な「寂しさ」と「特別意識」の話

今回は、

頑張り屋さんが抱える慢性的な「寂しさ」と「特別意識」の話

というタイトルにしてみました。

 

これは、

頑張り過ぎてもう疲れちゃった

といういつもの話ほど身近には感じないかもしれません。

でも、寂しさがないから身近ではないのではなく、あまりにも長くデフォルトのように心にあり続けているので、意識することもない(ので身近にも感じない)、というのが実際のところに近いと思います。

 

まずはちょっと話が飛びます。

人には多かれ少なかれ「特別意識」というものがあります。

分かりやすいのは、「私は一般ピーポーとは違うのよ!特別な存在なのよ!」と主張しまくり、特別な扱いを求める人ですね。このタイプは「特別意識」という言葉から連想しやすいかもしれません。

それから、

「○○ができれば私の存在は特別なものになって、存在意義を与えてもらえる」

みたいなタイプもあります。これは頑張り屋さんに良くあるタイプですね。

「特別」で「価値ある」存在になるためにたくさんの努力をして頑張り、その努力と頑張りの結果が与えてくれる「特別」感に安心を覚える、なのでそうやって特別であることに執着する、ということになります。

例えば私の場合は、いつも「正解」を出せる「優等生」であることで、先生や親の「特別」な存在、「お気に入り」になろうとし、そうであると信じ込もうとして必死でした。

いずれのタイプも、「そのままの自分」に価値があると思えていないので、「私は特別な人なの!」と主張しなければならない、とか、頑張って努力をして何か特別な存在であり続けなければならない、という怖れがあることは同じです。

 

で、ここで、「なので、自己価値をどんどん感じられるようになると良いね」という話はもちろんあるのですが、今回はこの「特別意識」を「寂しさ」と絡めて考えようと思います。

 

「特別」であることは、「他の人とは違う」ということでもあります。

ということは、自分が「特別」であることで存在意義を見出している時は、同時に「自分」を「周り」から切り離していることになります。

誰とも繋がっていない状態。

これが、頑張り屋さんの心の中にほとんどデフォルトで存在し続けている「寂しさ」を作っているんですね。

つまり、頑張り屋さんが抱える慢性的な「寂しさ」は、存在価値を感じたいからこそ必死でしてきた努力の、切ない副産物でもあるのですね。

 

さて、では、どうしましょう。

多分、ここまで読んでいただいても、寂しさをそこまで明確に感じてこなかった方にとっては、(へぇ、そんなこともあるのね)で終わってしまう話かもしれません。

なので、具体的に何か対策したいとも思わないことも多いかも、と思います。

が、寂しさを本当に感じていないのではなく、本当に感じてしまったら苦し過ぎるから麻痺させている、というケースも本当に多いんですね。

で、何だか良く分からないまま、職場や家庭や友人との間での人間関係(距離感)がぎくしゃくしたり、人といるとどうも疲れたり、ということも良くあります。

 

というわけで、もし今回の記事がどこかしら響いたのなら、その慢性的な「寂しさ」にそろそろ気付いてあげるタイミングなのかも、ということで、一つの考え方をご紹介してみます。

先ほどお話した通り、この「寂しさ」は、自分を周りから切り離している(分離している)からこそ生まれるものです。

ということは、すごく単純に言えば、もう一度周りと繋がり直せば良いわけです。

でも、どうやって?

取って付けたような仲良しこよしをやろうという訳ではありません。

まずは、自分が周りをどんな目で見ているのか、自分自身で観察してみると良いですね。おそらく、びっくりするほど周りから距離を取ってきたことに気づくと思います。

私はこれを意識し始めた時、無意識のうちに「周り VS 自分」の構図で世界を見ていたことに気づいてとても驚きました。周りのみんなは仲間、それに対して自分は一人ぼっち。そんな世界観で生きていれば、そりゃー寂しさも募るというものですよね。

こんな風に、自分がどんなフィルターで世界を見ているのかに自覚的になるのはとても大事です。

そうやって自分が持つフィルターに気づけると、それを持ち続けたいのか手放したいのかが選べるようになりますのでね。

そして準備ができて、「もうこの世界観は要らないや」と思ったら、もうそのフィルターは手放せているし、繋がりを作るのもぐっと楽になるし、「自分が存在すること」もずっと楽になっていきます。

 

それから、そのフィルターを手放すための、一つとても簡単なアファメーションを。

「私も素敵、あなたも素敵。
私も特別、あなたも特別。」

これは、「自分が存在価値を持つには、世界の中で特別な人は自分一人でなければいけない」という世界観から抜け出し、「私もみんなも平等に特別で素晴らしくて存在価値がある」という世界観をインストールするためのアファメーションです。

私もこれは日常的にぶつぶつと、また道を歩いていて人とすれ違うたびに、それから、これまで劣等感や優越感を感じてきたような相手にも、四六時中心の中で唱えていた時期がありました。

「そうだ、みんなも私も一緒に素敵で特別であればいいんじゃんね♪」

という感覚が心に沁みこむほどに、何だか笑っちゃうような楽しいような、軽やかな感じが心に広がっていきますよ♪

是非やってみてください。

 

参考になればうれしいです。

閑話休題。

運河の上にお花がいっぱい!

お花って元気になりますね~☆