(身近な人の死にまつわるお話です。心が苦しくなってしまいそうな方は、読まれない方が良いかもしれません。)
約1年前、義父が亡くなった。82歳だった。
このお話は、本当はもっと早くに書こうと思っていたのだけれど、
色んな思いがごちゃ混ぜになって、なかなかまとまらなかった。
1年経って、そろそろ言葉にできるかなと、試しに書き始めてみる。
義家族は、私の家族とはまさに正反対の、とても仲良しの家族である。
ただ表面的に当たり障りなく付き合っているのではなく(もちろんいがみ合うこともなく)、
お互いを信頼し、それぞれの距離感を尊重し、誠意を持ってお互いを助け合う、
私にとっては、どこかのテレビドラマのご家族ですか?っていうか、ぜんぜん嘘ですよね?みたいな家族だ。
その義家族の「おじいちゃん」である、パートナー氏の父親が亡くなり、
葬儀など一連の家族行事に私も参列したのが1年前のこと。
その時の義家族や葬儀の様子が、私の実父が亡くなった時の様子とはまるで違っていて、
そりゃー衝撃を受けたのである。
故人を偲んで涙をする。
もちろんそれは日本もオランダも変わらない。
私の父親が亡くなった時、私たち家族は、それぞれに涙を流した。
その時の私たちは、私も母も妹も、それぞれの中に閉じこもり、自分の悲しさだけを、それぞれが独りぼっちで勝手に感じていたように思う。
「愛する人を失って、私が一番悲しい」とばかりに、自分の悲しさしか見ていなかったとも言える。
そして、1年前の義父の葬儀。
彼らは、お互いを、何度も何度もハグした(私もみんなをたくさんハグした)。
大切な人が亡くなって、悲しいよね。
私も悲しい。
とても悲しいよ。
私たちの大切な人だもんね。
これから、「大好き」って直接伝えられないの、悲しいね。
寂しいね。
一緒に、悲しもう。
言葉に出してそう言っていたわけではないが、
そうやって、家族みんなで何度もハグをしながら、喪失の悲しみをシェアしていた。
みんなで心を通わせて一緒にその悲しさを感じ、もう本当に月並みな表現だが、家族の絆を深めていた。
自分の中に引きこもって自分の悲しさに浸る、という形でしか、父との別れを経験しなかった私にとっては、
その姿が、とてつもなく大きな驚きだったのだ。
悲しみって、家族や周りの人とシェアしてもいいのか!
同じ一人の大切な人を失った自分以外の人と、その感情を分かち合ってもいいのか!
そんな家族がこの世にはいるのか!
私もその家族の一員になっていいのか!
ナチュラルに、相当濃いめの心理学のワークショップやってるみたいだ!←これも本当に思った
とにかく、びっくり仰天だったのだ。
私の家族は、心の通わせ方なんてものは知らない人が集まった家族だったので、
父が亡くなった当時の私や母や妹に、「その悲しさを一緒に感じ、心を通わせる」なんて芸当は、不可能ではあった。
私は、心や感情や心理学を学んできたからこそ、義家族の様子も(リアルには経験したことがなかったから驚きつつも)理解したし、彼らと繋がることもできたが、
母や妹は、もしかすると今も、今回の義家族の様子を見ても「何してるのか(本質的な)意味が分からない」のかもしれないな、とも思う。
一応書いておくと、
これは、義家族の方が優れていて、私の家族の方が劣っているとか、そんな話ではないですよ。
義家族はこういう交流の仕方をする人たちで、私の家族はそうではない、というだけの話。
なので、母や妹も義家族のような交流を学ぶべき!とかそんな話でもない。
ただ、
「私は、心を通わせ愛し合う家族なんてものはどうせ無縁だ」と拗ねてきた私には、
この義家族と、義父の死を通じて確かに心の距離を縮め、繋がり合う、という経験ができたことは、
宝物のようにも感じるのだ。
義父にはそんな意図はもちろん全然なかっただろうと思うけど、
そんなギフトとして、私はこの経験を義父から(勝手に)受け取ろうと思うのだ。
お義父さん、
あなたはお義母さんと一緒に、約60年もの長きにわたって、素晴らしい家族を育みましたね。
そんなあなたの家族に出会えて、私は幸運な人間だと思っています。
お義父さん、ありがとう。
お疲れさまでした。
(実は、義父の死に関してはもう一つ書きたいことがある。
それはまた次回に。)
*
もっさりとデコられた自転車。