こんにちは、頑張り屋さんの女性を自由にするカウンセラー・コーチ、コバヤシアキコ@オランダです。
自己肯定感という言葉が普通に使われるようになり、良い世の中になったなと思う今日この頃です。
でもその一方で、人によって言葉の使われ方とか解釈の仕方がちょっとずつ違ったりするので、
例えば、
「自己肯定感て大切だって聞くけど、高過ぎたら傲慢で盲目なイタい人にならないかな?」
みたいな疑問・心配も見かけます。
というわけで、今回はこの疑問について考えてみます。
「傲慢」というのは、
「私はあなたよりも優れてる」とマウンティングしたり、
人の意見に耳を貸さないようなワンマンな態度になったり、
などかと思うのですが。
結論から言うと、
こういう傲慢な感覚とか態度って、「自己肯定感」がある人は、やらないんですよね。
順番にお話しすると、
まず、自己肯定に他人は関係ありません。
自己肯定とは、「自分」の「今」を「そのまま」「肯定すること」です。
で、この、「自分」の「今」には、例えば、
そこそこ美人でいけてる自分
もいれば、
美人だねとちょっと褒めてもらえたら嬉しいんだけどなと期待している自分
もいるし、
しょうもないことにイラついている自分
もいれば、
そんなしょうもないことにイラつく自分にまたイラついている自分
もいるかもしれません。
そのそれぞれが、
他人とか世間とかがどう思うかは全く関係なく、「今」の「私」なんだな、と受け入れる
んですね。
先ほどの例で言えば、
私は、実は自分でもそこそこ美人でいけてるって思ってるんだな
私は、ちょっと承認欲求もあるんだな
私は、イラついているな、その出来事を「しょうもないこと」と思っているな
私は、そんな自分ではダメだと思っているんだな
のように、
判断も否定もせずに、すべて「自分の今の状態」として、ただ「知る」、そのまま「受け入れる」のが、
「自己肯定」です。
自分の状態を、ラジオで実況中継するような感じかもしれないですね。
またこれは、
「これ以上でもこれ以下でもない、これが今の私なのよね」という自信
でもあります。
やはりここでも「他人」は関係ありません。
で、じゃあ、
マウンティングしたり、人の話に耳を貸さなかったり、という「傲慢な自己肯定感」は、どんな感覚なのかというと。
自分では自分の価値やら魅力やらが確信できないので、
他人と比較して自分が勝つ、勝っているように見せる・思い込むことで、自己肯定感を保とう
としていたり、
他人に意見されたり否定されたらすぐ傷ついてしまうので、
自分が一番正しいことにして、他人の話に耳を貸さないことで自分を守っていたり、
要は、
他人と比較・競争して、
自分の「勝ち」や「一番正しい」を見せつけることで、自己肯定感高い風にしているけれど、
ぶっちゃけ全然自己肯定できていない、全然自信がない
んですね。
で、自分の「勝ち」や「正しい」のためには、相手の能力とか魅力とか意見とかが、いつも気になります。
なので、本来の自己肯定と違って、
傲慢な自己肯定感は、「他人」に左右されまくり、つまり実はがっつり依存してもいる、
とも言えるんですね。
…というわけで。
本来の「自己肯定感」と、「傲慢な自己肯定感」の違い、ちょっとずつ分かってきたでしょうか?
本来の自己肯定感は、自分で今の自分を淡々と受け入れていて、自信を感じている状態、
傲慢な自己肯定感は、他人に振り回されて、実は自分が受け入れられておらず、自信もない状態、
という感じですね。
実際には、
自分のことを、客観的に、判断も否定もせずに淡々と知る、というのがまた難しいんですけれどね!
自分のことだとどうしても主観的になってしまいますし。
なので、やっぱりこれも練習がいるところではありますが、
練習するほど自己肯定できるようになるし、
すると、他人に振り回されない、しなやかな自信にもなります(他人の存在を抜きにして自分を肯定するので、当然と言えば当然なのですが)。
なので、練習する価値は大有りですよ♪
ちなみに、
セッションで、「自己肯定感」そのものがテーマになることはあまりありませんが(テーマになってももちろん良いんですけどね!)、
実は、セッションの会話自体が正しく自己肯定するためのプロセスになっていたりします。
そうやって、問題を解決するだけでなく、会話を通して自己肯定を積み重ねる場、なんですよね♪
もし良かったら、体験してみてくださいね♡
ちなみに、
傲慢にならないかが心配になってしまうくらい、根が謙虚な頑張り屋さんは、
自己肯定感を上げていっても傲慢になることはありませんので、ご安心ください♡
あなたが、自然で軽やかな自己肯定感を感じながら過ごせますように。
いつも、応援しています♪
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閑話休題。
芍薬って良いですね~♡