今回は、
不愉快な人間関係でも我慢せざるを得ない、友人を「選ぶ」なんてできない、と「イイ人」が思っちゃう理由
というタイトルにしました。
前回の「私が友人を『選ぶ』ようになった話」の続編です。
前回は、イヤが言えない良い人は、人間関係で不愉快な思いをすることがあっても
- それに対して自分を守るためのアクションを取らず
- 自分が我慢することで全て解決しようとする(けど不満や怒りが溜まるだけで解決にはならない)
- その我慢をやめて、自分が心地よいと感じる友人との関係にエネルギーを注ぐことにした
というお話をしました。
これに対して、感想をいただきました(Aさん、ありがとうございます!)。引用してご紹介しますね。
***引用ここから***
私も特に職場では、嫌な人がいても、我慢せざるをえませんでしたね。
プライベートでも、そんなことは多かった!
本当に辛くても、相手は、私がそんな思いでいることには気づかず、何を言っても、大丈夫な人と誤解され、強い女だと思われた。
我慢し過ぎは良くないと思いました。
それ以降嫌な人とは関わらないようにしてますね。
でも人生皮肉なもので、会いたい人には会えず、嫌な人にはよく会うなんてことはあります。
自分軸で生きるのは大事ですね。
(Aさん)
***引用ここまで***
イヤが言えないイイ人が人間関係で貧乏くじを引く、という経験を端的に表現してくださっているので、「ここにも同志が!」と思う方も多いのではないでしょうか?
というわけで続編の今回はまず、Aさんのご感想に反応する形で
なぜ、不愉快な人間関係でも「自分が我慢せざるを得ない」と思ってしまうのか?
というところから話を始めていこうと思います。
まず最初に大事な点は、「我慢せざるを得ないのはなぜか?」ではなく、「我慢せざるを得ないと思ってしまうのはなぜか?」です。
相手が私の辛さを分かってくれないから私が我慢せざるを得ない、のではなく、
自分が我慢せざるを得ないと思っているから我慢しか選ぶことができない、なのです。
この違い、とても大事です。何事も、自分から始まるのですよね。
その前提で、じゃ、なぜ「自分が我慢しなければならない」と思ってしまうのか?を考えようと思います。
なぜ「自分が我慢するしかない」と思ってしまうのか?
これ、結論から言うと、自分に対して
「私はその程度の不愉快な扱いが相応しい」と心の中で思っているから
なのです。流行りの言葉で言うなら自己肯定(自己価値)感がとても低いから、とも言えますね。
私の存在は、みんなと同じように敬意をもらうなんておこがましいちっぽけなもの。
どうせ私はみんなから軽んじられる。
私にはその程度の扱いがお似合い。
そんな風に、自分をまるで価値のないもののように思い込んでしまっているんですね。
そして、自分で自分をその程度の存在だと思っているとき、相手の不愉快な言動から身を守る価値が自分にあるとは思えていません。
なので、自分を守るためのアクションを取るという選択肢が自分にあると思うことができず、「ただひたすら我慢する」という行動しか取れなくなってしまうのです。
「自分が我慢せざるを得ない」と思ってしまうのは、背景にこういう事情があるんですね。
また、それと同時に、
(だって私は我慢して苦しむような扱いが相応しい存在なのだから、こんな思いをするのも仕方ない)
(そんな価値のない存在の私が、友人を「選ぶ」なんてめっそうもない、おこがましい)
みたいに考えることで、「我慢する」という自分の行動を正当化もしています。
こうして、イヤが言えない良い人は、友人を「選ぶ」なんてできない、そんなこと倫理的に間違っている、という考えに囚われていくのです。
「良い人」の、本当に切ない習性ですね。
Aさんがおっしゃっているような
***
本当に辛くても、相手は、私がそんな思いでいることには気づかず、何を言っても、大丈夫な人と誤解され、強い女だと思われた。
***
なんていうこともたくさんの方が経験していると思います。
これも、「言い返すなど身を守るアクションを取るほどの価値は自分にはないので、私には我慢するしか選択肢がない」と心の奥で思っているために、我慢を重ねるからこその結果、なんですよね。
んー、切ないことです。
更に切ないことには、そんな場面では自分も怒りを感じつつも、
「ほーらやっぱり。私はいつもそういう扱いを受けるんだ」
なんて思っていることも多いです(これも皆さん「確かに…」じゃないですか?)。
もともと「自分はその程度の扱いが相応しい」と思っているので、そういう場面はその思いを再確認する場になってしまうのですね。そして、そういう場面に出くわすたびに、その世界観を自分に再インストールすることになってしまうのです。
現実に起こる出来事というのは、自分にインストールされている世界観が現実に映し出されたものなので、その世界観を何度もインストールし直すことで、さらにそういう場面に出くわしやすくもなります(これも引き寄せの法則ですね)。
幸いAさんは「嫌な人とは関わらない」という選択をご自分に許せるようになってきているようですので、「その程度の扱いが相応しい私」だった世界観(セルフイメージ)を、「大事に扱われるのが相応しい私」に書き換える作業が進んできているのだと思います。
本当に良かったです!おめでとうございます!!
是非その調子で、「大事に扱われるのが相応しい私」の世界観をインストールし続けてくださいね♪
一つちょっとだけ気になったのは、ご感想の中でおっしゃっている
***
でも人生皮肉なもので、会いたい人には会えず、嫌な人にはよく会うなんてことはあります。
***
という部分。そんな場面が今も起こるということは、まだ心のどこかに「私にはこの程度が相応しい」という思いがほんのり残っているのかもしれませんね。
でもそれも、今の調子で「大事に扱われる私」のセルフイメージを強化していくことでだんだん減っていくと思います。
更に言うと、「大事に扱われる私」が強化できていくと、「嫌な人とは関わらない」だけでなく、上手な関わり方もできるようになってきます。そうすると選択肢が広がってますます楽になりますよ♪
なので是非、この調子で自分が快適な世界に進んで行ってください♪
というわけで今回は、頂いたご感想に返信する形で、
自分はどんなに不愉快な場面でも我慢するしかない
友人を「選ぶ」なんて間違ったことはできない、おこがましい
と、「イヤが言えないいい人」がつい思ってしまう理由についてお話してみました。
カギは、「私は大事に扱われるのが相応しい☆」という、「良い人」からすればとても図々しくお調子者に見えるセルフイメージです。
このセルフイメージは、職場・友人・恋愛・結婚などの人間関係だけでなく、お金・豊かさ・お仕事にも関わるとても大事なものなので、私がお話をうかがってサポートする際もとても大事にしているところです。
自分でできる方法としては、呪文(アファメーション)として「私は大事に扱われるのが相応しい☆」と唱え続けることにも効果がありますので、是非試してみてください♪
参考になればうれしいです。
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閑話休題。
オランダでは、カフェ、レストランやジムなどの人が集まる場所、それから学校も、4月6日まで閉鎖となりました。
ぎりぎりのところで何とかしてコロナを抑え込もうと頑張ってくれているお役所の皆さんには感謝ばかりです。
トイレットペーパーの棚はまだすっからかんですが、個人レベルではやはり普段通り静かに過ごすしかないですね。
手洗いうがい!神経質なほどやっています。
(4月7日追記:この記事を3月中旬にメルマガで配信した後、4月6日までの閉鎖期間が4月28日まで延長となりました。トイレットペーパーは既に普通に買えるようになっています。早く日常が戻ることを祈るばかりです。)