今回は、
「努力は必ず報われる」ってまだ信じてる?
というちょっと挑発的な(笑)タイトルにしてみました。
いやもちろんですね、努力は裏切りません。
頑張り屋さんたちはこれまでたくさんの努力に努力を重ねて数々のスキルを身に着け成果を出し、たくさんの人を喜ばせてきたはずです。
その意味では、努力は確かに報われるのです。報われてきたはずです。
でもですね。
その努力は、あなた自身を幸せにしてきたでしょうか?
そう聞かれると、ちょっと「うっ、それはそのぅ…」ってなりませんか?笑
だって実際、幸せは多分そんなに感じられていないのだと思うんですよね。
どういうことかというと、
頑張り屋さんにとっての「努力は必ず報われる」って、
「私の我慢と頑張りは、きっといつか誰かの目に留まるに違いない」
になっていることが多いのです。
そしてこうなっているとき、「報われた」感はとても得づらいのです。
じゃ、なぜこの時「報われた」感が得づらいのか?を順番にお話ししますね。
ここでベースになっているのは、「自分の我慢」と、誰かが気付いてくれるという「期待」ですね。ご存知の通りこれらはどちらも儚いものです。
まず自分の我慢。
当然ですが、我慢は好きでも楽しくもないことを無理やりやることなので、自分を幸せにしません。これは皆さん既に日々感じていることでしょう。
不満だけが溜まっていくし、結局長続きもしません(まぁ頑張り屋さんはかなり長く我慢し続けられますけれども)。
それから、いずれ誰かが気付いてくれるという期待。
これもまた、実にふわっとしたものです。
誰かって誰でしょう?
職場の上司とか同僚とか家族とかが現実的な「誰か」になると思いますが、もしかしたら誰もいつまで待っても気づいてくれないかもしれません。
それでも、一縷の望みを捨てずに我慢し続けることが「努力」なんでしょうか?
こんな感じで、頑張り屋さんの「いつか報われるかもしれない、とやっている努力」は、幸せな時間を作らない「自分の我慢」と、存在するかどうかも分からない「気付いてくれるかもしれない誰か」に頼り切った、実際には報われるかどうかはとても危ういもの、なのです。
これ、いろんなテレビ番組とか物語の影響も大きいと思うんですよね。
シンデレラとかおしんとか(古い!)小公女セーラとか(やっぱり古い!笑)、いろんなヒロインものってみんな、不遇の時代を経て最後には主人公の努力や我慢を周りが認めて称えて地位を与えてくれるじゃないですか。
そのイメージ、結構バイブルみたいに握りしめていませんかね??
あとは、もしかすると、「報われない努力こそ美しい」みたいな無欲の美の礼賛というか、最後まで報われない悲劇のヒロインこそ美しく価値があるみたいな、そんな信条はありませんか??
んー、皆さんだいぶヒロイン(ヒーロー)願望持ってますね?笑
(私はずーっとありましたよ☆というか、そんなヒロインになり切ってました)
もちろん、そのヒロインが好きで楽しくて選んでいるなら全く問題ないのです。
実際、最後に報われるヒロインのような奇跡が自分にも起こるかもしれませんよね。それをわくわくしながら待ちつつ努力を重ねられるなら、それはそれで楽しい人生だよね!と思います(でも最後まで待たないとご褒美がないのはやっぱりちょっとやだな笑)。
でもですね。
もし今「私の頑張りや努力はいつ報われるんだろう…」という切なさや苦しさがあるなら、自分の中にこういうヒロイン願望があるのかも?と探ってみるのも良いですね。
そして、「私はこういうタイプのヒロインに実際なりたいのかな?」とまずは疑問を持ってみると良いです。
そして同時に、「最後まで待たなくても良くて、そして奇跡を待つよりもずっと報われやすいタイプの努力」もお勧めします。
どうすれば良いかと言うと。
「報われる」ことの定義を、「誰かが見つけてくれる」ではなく「私が幸せを感じる」に書き換えるのです。
誰かが見つけてくれることでしか「報われた」と思えない時、それは相手次第なのでどうしてもその「誰か」に振り回されるし、気付いてもらえるまでの待ち時間は本当に長くて苦痛だし、結局見つけてもらえなければその時間が結局無駄になるし、大きな怒りや絶望を感じます。
でも、報われるための主体が「誰か」ではなく「私」であれば、自分でいかようにもできますよね。
「誰かに気づいてもらえるかもしれないからやる」のではなく、「これをやることで私が楽しくて幸せを感じるからやる」のです。
私が楽しくて幸せなら、とことん血が滲むまで努力もする(というか、できちゃう)のです。逆に、私が楽しくなくて幸せも感じないならやらない、のです。
報われているかどうかを、他人からの承認任せではなく自分の行動と感覚で決めるのです。
綺麗ごとに聞こえるでしょうか?
特にお仕事の場面では、やらないわけにはいかない(と感じる)ことの方が多いですから、それでも敢えて「やらない」ということを選ぶのはかなり勇気が要りますよね。
でも、仕事を辞めるとか極端なことをしなくても(しても全然良いと思うのですが)、やりたくないことの「要素」を減らすなど、人それぞれのやり方が必ずあります(「要素」の話は以前この記事で書きました)。
そして、「誰か」が気づこうと気づかなかろうと、自分が楽しさや幸せを感じられれば、その時点でその努力や頑張りは既に報われてしまっているわけですよね。それって、気付いてくれるかどうか分からない誰かや、起こるかどうか分からない奇跡を待つよりずっと確実です♪
ちなみにもう一つ言うと、そうやって楽しく幸せにできてしまっている時って、結局周りからも見えやすいし認めてもらいやすくもなるものです。
ただし、もし、どうしても自分の努力を認めさせないと気が済まない「誰か」がいたり、誰かに認められないと自分は絶対に報われないと自分の中で固く決まってしまっているなら、そこはちょっと深掘りする価値はあります。そこまで執着するようになった理由があるはずですからね。
私がお話をお聞きするときは、この辺に興味を持ってお聞きすることも多いです。
自分で深掘りするときも、「なんでこんなに『誰か』の承認に執着してるのかな?『誰か』って誰かな?」などの質問を自分に投げかけてみると良いですよ。
というわけで今回は、「努力は必ず報われる」の意味を、
「私の我慢と頑張りは、きっといつか誰かの目に留まるに違いない(だから嫌でも我慢し続けよう)」から
「嫌なことは自分にさせないという努力、楽しいことを自分にさせてあげるという努力は、必ず私を幸せにする(し、成果は周りからも結果的に認められやすい)」に
書き換えてしまいましょう♪という記事でした。
参考になればうれしいです。
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閑話休題。
写真は2年前に撮った桜です。
本当なら今はのどかでとても良い季節ですが、今年はちょっと別ですね。
日々ニュースを読んでいます。いつも通りに行かない日常にいろいろストレスもたまると思います。是非何かしら、まずは自分のご機嫌を取ることを心がけていきましょう。
自分のご機嫌が良ければ周りに対しても余裕を持てますのでね♪