前回、
「本来の自分とはちょっと違うキャラ」を知らないうちに演じて、自分が分からなくなっている?
というお話を書きました。
で、今回も「自分が分からない」感覚について、また別の視点で書いてみようと思います。
今回の視点は、「人の目」。
職場の同僚に何か言われたら嫌だから、
ご近所さんの目が怖いから、
お姑さん、小姑さんに良く思われないかもしれないから、
お母さんにお小言を言われそうだから、
ママ友さんたちに目をつけられたら怖いから、
世間的に外れたことをするわけにはいかないから、
など、いろんな「人の目」に配慮し、忖度し、
当たり障りなく、誰の目にもそこそこ正しく好ましい姿、振る舞い
をしようと心を砕いている方もまた多いと思います。実際そんなお話もしょっちゅうお聞きします。
で、当然のことですが、
この「当たり障りなく、誰の目にもそこそこ正しく好ましい姿」って、
もともとの自分から離れて「頑張って作っている」ことも結構多いです。
職場の同僚とかご近所さんとかお姑さんとかお母さんとかママ友さんとか世間様など、
自分以外の「人」が「これが望ましい」と言う姿に合わせているんですよね。
するとここで、
「もともとの自分」と「人の目に好ましく正しい姿の自分」との間で自分を見失い、
自分が分からない、
という感覚になったりします。
しかも、その「人の目」も、その人の気分とか、住んでいる地域とか、組織の文化とかによって、正解は全然変わってきます。
すると、ある場面では「よかった、嫌われてない、これで大丈夫」と思える正解の姿になれても、
また別の場面では、新しく「正解」の姿を見つけ直さなければならないこともままあります。
そうやって、意外と流動的な「人の目に映る正解の姿」に振り回されるなんてことも結構あるのですよね。
もともとの自分では必ずしもない仮面を着け続けているわけですから、やっぱりこれも、疲れます。
しかも、それが重なると、
「あら?この仮面じゃダメなの?じゃこっちは?ダメ?じゃこれはどう?…あーもう、私がこんなに気を使ってあげてるのに、みんな好き勝手言って!きー!」
なんて怒り出したくなったりすることも、あるかもしれません。
こんな風にして「自分が分からない」感覚になる方って、本当に優しい方なんですよね。
相手が心地良く感じる「正解」をやってあげようと、その正解を察したり、器用にそれに合わせてあげることができる方、なのです。
そして、ついそうしてあげちゃう方、なのです。
なので、こんな日々の中であなたが「自分が分からない」と思ったら、あなたは
すごくすごく優しい人
なんだなって、自分に思ってあげてくださいね。
「きー!」と思っちゃう私は全然優しくないですよね?
と思っちゃう方もいらっしゃると思うけど、その本当の意味は、
「きー!」となるまで頑張れちゃうほど、優しい人
なのですよ。
そして、「もともとの自分」らしさを見つけ直していきましょう。
これまでずっと全力で「人の目」に配慮してこられた方は、すぐにはなかなか見つからないかもしれません。
でも、「ない」わけじゃないんですよね。
長いこと脇に置いてきたから、見つけ方が分からなくなってしまっているだけ、なのです。
私はこれが好き
私はこうしたい
私はこれが嫌い
私はこれが快適
私はこれが嬉しい
日常のごく些細なところから、こうやって「私は」を意識することから始めましょう。
地味!でしょ?笑
でも、日々自分相手にこれをやる代わりに、「人の目」に地味に配慮し続けてきたわけですから、
今度はやっぱり同じことを「私」にもやってあげたいところ、なのです♪
そして、やればやるほど、効果も感じられますよ!
「私」の声を聴くこと。自分と繋がること。
あなたが、本来の自分との繋がりを取り戻せますように。
いつも、応援しています。
*
閑話休題。
ゴーダチーズで有名なゴーダの広場(オランダ語ではハウダと発音します)。